瀬古さんに挑みたかった~オリンピックへの一発勝負~

瀬古さんに挑みたかった~オリンピックへの一発勝負~
“栄光がほしい”、青森から上京しこつこつと力をためてきたマラソンランナーは、一発勝負にかけて、オリンピックへの切符をつかみかけた。しかし切符を手にすることを保留された時、ランナーは無謀とも思われる勝負に出ようとする。オリンピックはいつの時代も、アスリートの意地を浮き彫りにする。(ネットワーク報道部記者 松井晋太郎)

オリンピック 夢の舞台へ

今月15日、東京オリンピックのマラソンの代表選手が決まる。男女とも代表3人のうち2人をMGCと呼ばれるレースで、“一発勝負”で“文句なく”決めようというものだ。

一発勝負でオリンピック選手を決めようとしたレースがかつてもあった。しかし、事態は思わぬ方向に進み、若い1人のランナーの運命を翻弄することになる。
ランナーの名前は工藤一良。32年前、1987年の12月。27歳の工藤はオリンピックへの夢をかけて、福岡国際マラソンのスタートラインについていた。
それまで極めて優れたタイムを出したわけでもない。この時点でのマラソンの最高タイムは当時の日本記録より4分23秒遅い2時間11分58秒。

先頭に立ってレースを引っ張るのではなく、イーブンペースを守って後ろからこつこつと順位をあげていくタイプだ。

工藤が夢をかけたのは、このレースが翌年のソウルオリンピックへの切符を手に入れる事実上の一発勝負とみられていたからだ。
「オリンピックは、アスリートにとって夢の舞台です、その舞台に立ちたいとずっと思っていました。“一発勝負での選考だったらチャンスがある”そう考えていた選手は自分以外にも何人もいました」(工藤さん)

一発勝負

ソウルオリンピックの代表3人を選ぶにあたって、福岡国際をはじめ3つのマラソン大会が選考レースとされた。

しかし「強化指定選手は福岡国際マラソンに参加すること」が、なかば義務づけられていたため、“事実上、福岡での一発勝負”とみなされていたのだ。
当時の日本の男子マラソンは、瀬古利彦を始め中山竹通など世界で闘える選手がしのぎを削り隆盛を極めていた。特に瀬古はこの時まで14回のマラソンを走り、10回優勝という驚異的な勝負強さがあった。

工藤は瀬古、中山に続いて、3番手で切符を手に入れることを考えていた。
「一発勝負だったので優勝はできなくても3番に入ればというのが頭にありました。瀬古さん、中山さんの力はぬきんでていましたが、その次だったら“可能性がある”と」(工藤さん)

負け犬で帰って来るな

工藤は期すものがあった。

青森県三戸郡の出身の工藤の実家はリンゴやサクランボを生産する農家で、地元の農業高校に進んでから本格的に長距離を始めた。

父親から「陸上はいいから農業を手伝え」と言われたが走ることが好きで3年生の時には、全国高校駅伝でエースが集う“花の1区”で区間賞を取るまでに成長する。

多くの大学から「箱根駅伝を走ろう」などと誘いを受けたが、「自分で稼ぎながら走りたい」とすべて断って東京にある実業団へ進んだ。
しかし、マラソンの世界は甘くない。最初のレースで2位になったものの、そのあと何回走っても記録は一向に伸びなかった。

工藤はある夜、合宿所の近くの公衆電話に行き、受話器を握った。
「実家に電話をしました。『記録も出ないしやめて帰る』と。偶然、電話に出た母親から『負け犬のまま帰ってくるな』と叱られましてね。
高校を卒業して夜行列車で青森を出る時に母親が地元の駅まで送ってくれて泣いているんですよね。そんな母親から厳しく言われましてね。帰ってこいと言われると思っていましたから、ショックでした」
「“一発勝負”の2年前だったと思います。そこから“両親を喜ばすために頑張ろう”と思いまして」(工藤さん)
この時から、練習に向けた気持ちも変わりタイムも急激に伸び始める。福岡国際マラソンの前には、月に900キロの距離を走ってレースに備えた。

波乱

一発勝負の12日前、波乱が起こる。優勝候補の瀬古が左足ひ骨の剥離骨折を理由に欠場を発表したのだ。
「新聞で知りました。でも瀬古さんが出ないことをどうこう考えないようにしました。そんなこと考えたら気持ちが揺れますから。自分のレースに集中することにしました」(工藤さん)
レースは正午の気温7.5度、北の風が5メートルという寒さと風の悪条件の中、瀬古を抜きにして152人でスタートを切った。
「納得のいく練習、調整ができてました。『よし』と。とにかく日本人で3番、何が何でも3番に入るんだ。そういう思いでスタートしました」(工藤さん)

3番手に、しかし

結果から書くとこのレースは35キロまで当時の世界記録を上回るペースで走った中山竹通が独走し、2時間8分18秒で優勝する。2位は2分16秒遅れて新宅雅也。

工藤は折り返し地点では日本人5番手だったが、じりじりと前の選手との差を詰めていく走りを見せた。
「前の選手との距離とか、誰がいるのかとか確認していましたし、焦りはなかったです。どこかで落ちてくる、その時がチャンスだと思っていました」
その言葉通り、工藤は30キロを過ぎてから1人を、38キロ過ぎでさらに1人をかわし日本人3番手に順位をあげて競技場に入ってきた。
アナウンサーが「工藤が大健闘をみせました」と興奮気味にことばをつなぐ。ゴールのタイムは2時間11分36秒の自己ベスト、作戦通りの会心のレースだった。

レース後、テレビ中継で「オリンピックへの夢を持ってやってきました。出たいです」と素直な気持ちを話している。
しかしその日の夜、工藤の記憶では大会後のパーティで中山と新宅に代表の内定が報告された。自分の名前は呼ばれなかった。

直訴

もやもやしている中、今度は選考レースの1つと位置づけられていた3か月後のびわ湖毎日マラソンに瀬古が出場し、オリンピック代表を目指すという情報が耳に入ってきた。

事実上の瀬古の救済策だ。それを知った工藤は無謀とも思われる勝負に出ようする。所属する実業団の監督のもとに行き、瀬古と勝負したいと直訴したのだ。
「びわ湖毎日に、私も出ます」
福岡国際マラソンで精根を使い果たしたあと、わずか3か月でのレースは体の負担が大きい。ただ工藤は本気だった。
「瀬古さんに勝たないかぎりは代表には選ばれない。勝ち負けをはっきりさせたい、そう思っていました。最初は3番に入ればと言っておいて、瀬古さんが出なかったから新たな大会で決めますよというのはおかしいんじゃないかとも思っていましたね」(工藤さん)
しかし監督は「お前はやめておけ、待とう」とだけ言った。理由は聞かなかった。
「もし負けたら完全に代表への道はなくなる、僕のことを思ってそう考えてくれたのかもしれません」
工藤は悔しそうに、そう話した。

確信

そのびわ湖毎日マラソンは3月13日。工藤は見たくもないレースを、マスコミの取材を受けるために合宿所で見せられた。

福岡国際マラソンにトップ選手のほとんどが出場したため、レースに有力選手は出ていなかった。瀬古は予想通り優勝でテープを切る。
タイムは、2時間12分41秒。マラソンの記録としては平凡で工藤の選考レースでの記録より、1分以上遅かった。

ただ工藤は瀬古の代表入りを確信した。
「優勝しガッツポーズで観客に手を振る姿を見た時、私は瀬古さんで決まりだなと思っていました」(工藤さん)
3日後、日本陸連の強化委員会は3人目の代表選手に工藤ではなく瀬古を選んだ。

憧れ

工藤はいま愛知製鋼陸上部のコーチをしている。
愛知県東海市にある私鉄の駅前で待ち合わせをして会った。目が鋭く、武骨で飾り気のないしゃべり方だった。

“なんでいま、取材に応じてくれたのか”と尋ねると「もう長い時間がたちましたから。いいかなと。あの時は何もしゃべるなと言われてましたからね。当時は取材も嫌でした」と答えた。
日本人3番手になりながら選ばれなかったことはどう思っていますかと聞いた。
「陸連には何が何でも実績がある瀬古さんを出したいという気持ちがあったでしょう。27歳の一選手ではあらがえませんでした。陸連に対しては『何でだ』という思いがありました」
瀬古に対する思いも聞いた。
「瀬古さんを恨むような気持ちはありませんよ」
即答だった。
「瀬古さんは憧れのランナーでした。出場すると国立競技場がファンで満員になりました。長距離のスーパースターでした。雲の上の存在ですよ。少しでも近づきたいと思い、若いときはフォームや腕振りもまねして走ったりしました」
憧れのランナーと闘わずに選考に敗れた悔しさはいまも残っている。
「でも出られなかったという悔しさがあったからこそ指導者になっていろいろと考えて指導できたと思っています。悔しさがないと強くなれないですね」
工藤は指導者となったあとオリンピックに出場する長距離選手を育て上げた。
「瀬古さんより早くオリンピック選手を育てようとそう考えました。そりゃそうですよ。意地がありましたから」

自信と申し訳なさ

瀬古利彦はいま日本陸連のマラソン強化戦略プロジェクトリーダー。32年前のことを聞いてみた。瀬古には世界の一流選手と闘って勝ってきた自信が、あった。
「私の方が世界で実績あるしね。世界で闘って優勝している訳ですよね。当時はオリンピックに出たなら僕のが強いと思っていましたよ」
しかし、実際に代表に選ばれてからは思いが少し変わってきたようだ。
「『工藤君に申し訳ないな』という思いが出てきました。オリンピックというのは陸上選手にとって特別に違う次元の大会なんですよ。今は、工藤君のオリンピックの夢をつぶしてしまって申し訳なく思う。現場の約束をほごにしてしまってね。オリンピックは工藤君に申し訳ないと思いながら走りましたよ」。
2人は競技場などで会うことはあるがあいさつ程度で、当時のことを話すことはないという。

工藤に瀬古の思いを伝えると「お互いに選考に振り回されたのは同じだったんですね」と話した。

意地

代表に漏れた工藤は自分なりに気持ちにけじめをつけようとする。ソウルオリンピックの半年前に世界的なレース、ロンドンマラソンへの出場を決めた。
「自分にとってのオリンピックだと思って走りました。工藤を選ばなくてよかったと思わせないために、何が何でもこのレースで成功したかったんです」(工藤さん)
結果は、日本人トップの3位。タイムは2時間10分59秒、工藤の競技人生の最高記録となった。
「僕にとって2時間10分59秒は、勲章ではないですが意地ですね。ランナーとしての意地です」(工藤さん)

最後のレースは…

工藤はこの後、練習中にしたケガが治らず30歳の若さで引退を決意する。アスリートとして最後のレースに選んだのは“一発勝負”のレースから4年後の福岡国際マラソンだった。けがをした右ひざが完治しないままレースに出た。「走れないと分かっていましたが いい思い出も悪い思い出も福岡にあったのでここを最後にしようと思いました」(工藤さん)全盛期とは程遠い走りで21位、ボロボロになるまで走り切って現役を終えた。

“一発勝負”となるMGCレースについては「夢を追いかけて走ってもらいたい。諦めた瞬間に終わってしまうから。夢を諦めずに最後まで走ってもらいたい」と話している。