昭和天皇 戦争回顧 メモ見つかる 具体的記述も

昭和天皇 戦争回顧 メモ見つかる 具体的記述も
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初代宮内庁長官 田島道治が残した資料の中から昭和天皇との対話を記した「拝謁記」とは別に、戦後、昭和天皇が側近たちの前で戦争に関する回想を語った際にその場で作成したとみられるメモが見つかり、NHKが入手しました。メモには、戦時中の作戦や判断についての昭和天皇のものとみられる後悔の言葉が書きとめられていて、専門家は「軍の最高司令官だった大元帥(だいげんすい)、昭和天皇に今まで以上に迫ることができる貴重な資料だ」としています。
このメモは「宮内府」と書かれた11枚の紙の両面にペンで手書きされたもので、昭和23年から5年半にわたって宮内庁やその前身の宮内府で長官を務めた田島道治が残した資料の中から見つかり、NHKが入手しました。

近現代史や軍事史が専門の複数の研究者が分析した結果、書かれた内容や田島長官の日記の記述などから、昭和23年10月に昭和天皇が側近たちを前におよそ1時間半にわたって戦争に関する回想を語った際にその場で作成されたとみられることがわかりました。

この中には、東京裁判対策として作られ、後に出版された「昭和天皇独白録」の内容と重なる記述が含まれる一方で、「マリアナを防備すればよかった 戦争すんだつもりで防備撤去した」とか、「ガダルカナルを捨てニウギニヤ、ポートモレスビーを攻撃した方よかつた」などと具体的な作戦についての踏み込んだ発言も記されていました。

そして、メモの最後の「敗因」の項目には「精神に重(おもき)を置きすぎ科学軽視」、「陸海軍不一致」などと記され、田島長官が残した「拝謁記」の中で、昭和天皇が軍が勝手に動いていた様を振り返る際に頻繁に使っていた「下剋上」ということばで結ばれていました。

軍事史に詳しい明治大学の山田朗教授は「これまで明らかになっている昭和天皇の戦争回顧の発言は編集されたものが多いが、これはその前の段階のものなので昭和天皇の実像を知るうえでとても重要だ。昭和天皇が戦争のやり方について『こうすればよかった』と踏み込んだ発言をしている資料はこれまでになく、大元帥・昭和天皇に、今まで以上に迫ることができる貴重な資料だ」と話しています。

「昭和天皇から見た東條内閣」

メモの冒頭に「東条内閣低調」など箇条書きされている部分について、山田教授は「それまで強力に戦争を主導してきた東條内閣が急激に失速した理由として、第1に『マリアナ失陥』が挙げられている。これはサイパン島を中心としたマリアナ諸島の陥落を意味している。さらに2点目として『憲兵』と書かれているが、これは憲兵を多用して国民の生活まで監視したいわゆる憲兵政治が反発を招いたことを意味しているとみられる。3点目に『東條兼職』と記されているが、これは東條英機が当時総理大臣だけでなく陸軍大臣と参謀総長を兼ねていたことを示している。1つだけでも忙しい役職をいくつも兼任したために細かい部分まで詰めが行き届かず部下に任せる形になるが、部下が東條の威を借りて国民に無理を押しつけるようになった結果、東條内閣から人心が離れていったという流れだと思う」と話しました。

そのうえで、「これは当事者だから語れることというか、昭和天皇から見た東條内閣ということを表している。昭和天皇は東條内閣をかなり信頼していたが、その後急激に崩壊してしまった。後になってその原因が何だったのかと昭和天皇自身も考えていたのだと思う」と話しました。

さらに、メモの書き出しがこうした記述だったことについて、「東條内閣が倒れたところから、もう戦争はやめた方がいいという考えが国内でも少しずつ現れ始め終戦工作が始まるので、これはまさに敗戦につながる流れがここから始まったと昭和天皇が位置づけたことを示している」と述べました。

「マリアナ防衛に徹すれば… 非常に珍しい発言」

メモの中にある「第一期作戦後マリアナを防備すればよかった 戦争すんだつもりで防備撤去した」という記述について、山田教授は「日本軍はマリアナを飛び越えてさらにトラック諸島、それからガダルカナル島などのソロモン諸島へと進んで行ってしまうが、結果的に考えると、資源を日本国内に円滑に運んでくるためには、概ねこのマリアナ諸島からトラック諸島までを固めておくことが有効だった。それよりさらに戦線を拡大すると、広げれば広げるほど戦力が分散されて作戦がやりづらくなる。昭和天皇の軍事思想はあまり戦線を拡大しすぎると戦力分散になって不利になるという非常にオーソドックスなものだ」と指摘しました。

そのうえで、「マリアナ防衛に徹すればよかったんだという、この言い方は非常に珍しい発言だと思う。これまで見つかっている昭和天皇のさまざまな発言の中でも、こうすればよかったという発言はほとんど出てきていない。攻勢作戦の勢いでどんどん戦線広げてしまった結果補給ができなくなって、急速に後退することになったことが日本軍の作戦失敗の大元なので、これは日本軍の失敗の一番重要な部分を突いている」と指摘しました。

さらに、「ここで示されている昭和天皇の考え方は、ガチガチに守りを固めるというのではなく、戦線を拡大しすぎずに早い内から守りを固めつつ時々撃って出るという攻勢防御という考え方だ。こうした考えのもとマリアナを基本にして戦略を立てるべきだと語っていたことがわかるこの資料は非常に貴重だと思う」と話しました。

「戦線拡張には懐疑的だった」

メモの中の「ソロモン」という項目に「ダガルカナルを捨てニウギニヤ、ポートモレスビーを攻撃した方よかつた 両総長きかず」という記述について、山田教授は「これはガダルカナルの誤りだ」としたうえで、「日本軍はガダルカナル島の戦いを機に東部ニューギニア南岸のポートモレスビーを攻撃したが、陸軍はガダルカナルの奪回に力を入れていて、ニューギニアの作戦がおろそかになってしまった。ここで示されている昭和天皇の考え方は、ガダルカナルという1つの島にこだわるのではなく、ソロモン、ニューギニアの全体で考えろということだと思う。ポートモレスビー攻撃は結局失敗するがそれはガダルカナルに兵を割いてしまってポートモレスビーに増援部隊を送れなかったからなので、昭和天皇はもっと東部ニューギニアに重点を置いて、そちらでも作戦を積極的に進めるべきだったということだろう」と話しました。

さらに、「海軍はソロモン諸島やさらにその先のフィジーやサモアにまで進んでいこうと計画していたが、昭和天皇がそうした戦線を拡張していく作戦には懐疑的だったことがわかる」と話しました。

「下剋上にはじまり下剋上によって敗れた」

メモの最後の「敗因」の項目に、「孫子の兵法」、「精神に重を置きすぎ科学軽視」などと記されていたことについて、山田教授は「孫子の兵法というのは、政治と軍事のバランスを考えるオーソドックスな戦争のやり方で、日本のやり方が決してそれに学んだものではなかったということを示しているのだろう」と話しました。

さらに、「精神に重きを置きすぎ科学軽視ということのは、第2次世界大戦がレーダーや原子爆弾など科学技術の最先端が勝敗を決するものだったのに、日本は人間の精神に重きを置きすぎて科学技術の軍需利用の点で遅れていたということを示していると考えられる」と話しました。

このメモの最後に記されていたのは、「拝謁記」の中で昭和天皇が軍が勝手に動いていた様を振り返る際に、頻繁に使っていた「下剋上」という言葉でした。

これについて山田教授は「結局、下剋上にはじまり、下剋上によって敗れた戦争だったということだろう。軍隊は本来トップダウンの組織であるはずなのに当時は中堅の幕僚たちが基本的な決定権を持っていてそれを上の者が追認していくという形になってしまっていた。上からの命令に服するという軍隊の一番本質的な部分が失われていたことが問題だと、昭和天皇も認識していたということを示している」と指摘しました。