いじめと認められるまで ~母親の4年7か月~

いじめと認められるまで ~母親の4年7か月~
田中拓海さん高校1年生。2014年8月20日、自宅でみずから命を絶ちました。2度のいじめ調査を経て、後にその死にいじめが大きく影響したと認定されます。『息子に何があったのか知りたい』。その一心で走り続けた母親。息子の死から結論が出るまでに積み重ねた時間は、1680日。なぜこれほどまでに時間がかかったのか。声を上げ続けた母親の日々を追いました。(鹿児島放送局記者 老久保勇太)

『本当は誰かに助けてほしい』

2017年12月。田中さんの母親は鹿児島県庁にいました。息子の死からすでに3年、1度目のいじめ調査が不十分だとして、報道陣の求めに応じて会見に臨んでいました。

この頃から取材に加わった私は、会見取材で初めて、母親と対面しました。多くのカメラの前で調査の不備を指摘し、厳然とふるまう姿。真実を追求する母親の力強いまなざしが印象的でした。

しかし、この日から取材を重ねる中で、ふとした本音を耳にするたびにその印象は変わっていきました。ある日のメールにはこんなことばがつづられていました。
『行政とのやり取りは選択の連続で緊張している』
『本当は誰かに助けてほしい』

息子のことで報道を私物化してはいけないと、公の場では常にことばを選んでいた母親。その裏では、終わりの見えない孤独な闘いに心を大きくすり減らしていたのです。

『抱きしめたかった』

息子の拓海さんがみずから命を絶ったのは2014年8月20日。母親が帰宅したのは夜9時ごろでした。

自宅への長い坂道を上ると、ふだんは消えている玄関の外灯がついているのが目に入りました。台所の流しには、いつも通り、空の弁当箱や茶碗が置かれていました。さらにふだんはしない洗濯物がソファーにたたまれて、お風呂のお湯まで沸いていました。

感心した母親。ところが、いつも必ず出迎えてくれるはずの本人の姿はありません。そして、2階の部屋で拓海さんを発見します。救急車を呼ぶと到着まで懸命に心臓マッサージを続けました。しかし、拓海さんは母親の帰宅するほんの少し前に亡くなっていました。

夏の夜、自宅でたった1人、15年の生涯を終わらせた息子。最期の瞬間に寄り添えなかったことを後悔しています。

『あれが最期と分かっていたら心臓マッサージをしないでせめて抱きしめてあげたかった』

『知らなくてごめんね』

年頃の男の子らしく、少し口下手な一方で、母親とのスキンシップをいとわなかった拓海さん。前の晩、2人で一緒にから揚げを作り、たあいもない将来の話をしました。

翌朝、夏休みの補習に向かう背中を見送るまで、母親にとって何一つ変わらない日常が続いていました。しかしその日、拓海さんは学校には行かず人知れず自宅に戻りました。

どんな思いで来た道を引き返し、何を思って最後の家事をしたのか。母親がそれを知る術はありませんでした。

『拓海がどんな気持ちだったのか知りたい。お母さん知らなくてごめんねと伝えたい』

何よりも自分自身を責めた母親。この、たった1つの願いを胸に、走り続けました。

問題はいじめの有無ではない?

「いじめはあったのか、なかったのか」
取材当初の私はそれが最大のテーマだと思っていました。しかし、母親や行政への取材を続けるうちに、調査と向き合う姿勢の違いが最大の問題であると感じました。

拓海さんが亡くなった直後、通っていた高校は基本的な調査を行い、問題は見当たらないとしました。しかし、当時の記録によると、生徒や家族からほとんど話を聞くことなく、教員への聞き取りだけで結論を出していたことがわかりました。
また、拓海さんは亡くなる直前に家族に無断で何度も学校を休んでいました。しかし、母親がその実態を知ったのは、拓海さんが亡くなっておよそ半年後、県教育委員会が当時の調査の内容を開示したときでした。

最終的には、母親の求めで行われた生徒へのアンケートからいじめ調査のきっかけとなる回答が出てきました。折しも、拓海さんが亡くなった前の年には国が「いじめ防止対策推進法」を施行するなど、全国でも鹿児島でもいじめ問題への関心が高まっていた時期です。

一方で、現場ではいじめがあったかどうかの調査でさえ遺族からの強い働きかけがないと行われない、消極的な行政の実態が見えてきました。

拓海さんの死から1年以上がたち、県教育委員会は大学教授や弁護士など5人の有識者による最初の調査委員会を設けます。そして、さらに1年以上をかけて、72ページの報告書がまとめられましたが、その内容は母親をさらに追い詰めるものでした。

『拓海がいない』

「自殺の要因となるいじめは特定できない」

母親はこの報告書の結論を受け入れませんでした。延べ100人以上にのぼる聞き取り調査は県教委や学校関係者が90人以上にのぼった一方、生徒はわずか3人。

そして、拓海さんのスリッパがトイレから見つかったことなど、いじめが疑われるエピソードは、数少ない生徒による「一緒に探す生徒がいた」、「比較的短いスパンで見つかった」などの証言をもとに、「深刻な事態に至っていたとは考えにくい」などとされました。

『スリッパが無くなってもすぐに見つかればショックを受けないのか』『なぜもっと多くの子どもたちに話を聞かないのか』

次々に浮かぶ疑問。母親はこの報告書をこう表現しました。

『拓海がいない』

いじめ調査は、知事の判断で再調査できます。また、声を上げる日々が始まりました。しかし、その負担は計り知れないところまできていました。

それでも声を上げ続ける

学校、教育委員会、専門家による調査委員会。相手を変えながらそのつど、膨大なやり取りをかわしてきた母親。その多くはメールや文書をともないます。慣れない行政への文面を作り続ける毎日。

拓海さんと過ごしたその家で、拓海さんの死を振り返り続けます。作業は、決まって深夜でした。精神的な負担から夜はまともに眠れなくなっていたからです。

母親の心の中は拓海さんを失った自責の念に加えて、相手への不信やストレスから、その死を悼むための場所を失っていました。
それでも声を上げ続け、最後の望みを託したいじめの再調査委員会。去年の夏、メンバーを一新して始動しました。

法律が整備されても運用が追いついていない現場の実態を幾度となく痛感してきた母親。再調査委員会は母親たっての希望で、外部のいじめ調査に精通した専門家のレクチャーを受けることから始まりました。

その後の再調査委員会の動きは、徹底して拓海さんの目線から当時の出来事をとらえ直そうとしていることがうかがえました。同じ高校だった生徒への聞き取りは18人に広がり、さらに中学校時代の友人などにも範囲を広げました。

当初予定していた時期よりも半年調査を延長し、ことし3月、2度目の報告書がまとめられました。

「学校でのいじめが自殺に大きく影響した」

最初の調査委員会の結果を覆しました。

4年7か月目の涙

再調査では、トイレからスリッパが見つかったり、かばんに納豆巻きを隠されたりしたエピソードを“いじめ”と認定。当時、拓海さん本人やまわりの生徒も明確にいじめと明言していなくても、本人の立場に立てば、苦痛を感じていたことがうかがえると認定しました。何より、当時拓海さんが置かれていた環境について多くの証言をもとに入念に調べました。

中学校では部活動に打ち込み、クラスで目立つタイプではなかった拓海さん。高校では、一転してモノマネや一発芸を披露し明るくふるまい、クラスの中心グループに加わっているかのように見られました。しかし、その裏では、新しい環境で友人ができるのか不安を吐露していたのです。
“素”の自分を抑えてまで、必死に自分の居場所を確保しようと明るくふるまっていた様子がうかがえました。そうした高校入学して間もない時期に立て続けに起きたいじめ。拓海さんはこのころから友人の呼びかけを無視したり、家族に無断で学校を欠席したりするようになっています。

人間関係に不安を覚える中で必死に居場所を作ろうとしていた拓海さん。報告書では居場所を失いたくないからこそ、いじめをつらいと言い出せず、より一層追い詰められていったとして、いじめが自殺に大きな影響を与えたと結論づけました。

息子の死から4年7か月。

『拓海がどんな気持ちだったのか知りたい』

そう訴え続けた母親は、報告書の内容を聞きながら涙があふれました。それは、4年7か月がたって初めて流すことができた息子を悼む母親の涙でした。

その日の会見。いつものようにことばを選びながら、こう話しました。
『いじめが認められたからではなく、拓海を丁寧に扱って調査してくれたことに感謝したい』

いじめ調査の在り方とは

『われわれの調査はいわゆる裁判ではない。証拠や聞いた話から完全に認定できなくても可能性が高いことはそのまま書くようにした』

再調査委員会の甲木真哉委員長は、調査を終えてこう振り返りました。

“いじめの調査は誰かを断罪することが目的ではない”。自殺した場合はなおさら、本人の声なき声を拾おうとする姿勢に徹して初めて教訓を得るのだと感じました。甲木委員長は拓海さんの調査を踏まえ、次のように話しました。
『自分が嫌だと思わないようなことでも、人の尊厳を傷つけ、場合によっては自死に至る。そうしたこともいじめであると正しく理解してほしい。死の背景にあるのは必ずしも強烈ないじめだけではない』
そのことばは、子どもたちだけではなく、調査に携わってきた大人たちにも向けられているように聞こえました。

教訓はいかされるのか

再調査の終了から2か月余りたったことし5月、県教育委員会から母親に面会の申し入れがありました。対立を深めてきた県教育委員会と前向きな話ができるかもしれない。申し出を受けたことを知らせる母親の電話からは、不安と期待が入り混じった様子がうかがえました。
迎えた当日、初めて自宅を訪れた鹿児島県教育委員会の教育長は拓海さんの仏壇に手を合わせると静かに口を開きました

『重大な事態を防げなかったことを心よりおわび申し上げたい』

わずか数十秒のことばを述べて押し黙りました。

『それで、きょうは終わりですか?』

たまらず代理人の弁護士が問いかけました。

『報告書を真摯(しんし)に受け止めて再発防止に取り組みたい』

代理人が再度問いかけます。

『再発防止は当たり前のことで、どうしてこうなったのか、そういうことについてお話があると思っていた。今のお話でわざわざいらっしゃったのなら、来ていただいた意味はなかった』

それでも教育長はことばを繰り返しました。

『重く受け止めておわびに上がったという趣旨でご理解いただきたい』
再調査が終わり2か月。この日のために多くの資料を用意し、前向きな議論に期待を寄せていた母親は、繰り返される抽象的なことばに涙を流し、教育長らは代理人に促されるままに拓海さんの家を後にしました。

この4年7か月、母親が訴え続けたのは、拓海さんの死と向き合ってほしいというメッセージでした。そのための道筋は再調査を経た報告書でようやく示されました。

その死を少しでも無駄にしないために次に行動をおこすのは遺族ではなく教育行政や私たち社会の役割のはずです。遺族はいつまで、声を上げ続けなければいけないのでしょうか?

この夏、拓海さんが亡くなって5年になります。