天安門事件 こうして中国の改革は死んだ

天安門事件 こうして中国の改革は死んだ
30年前の天安門事件は、中国共産党の強権的な政治の原点でもある。
NHKスペシャル「天安門事件~運命を決めた50日」の取材チームは、当時の状況を掘り起こすため、多くの関係者を取材した。

中でも、事件で失脚した当時の共産党トップ、趙紫陽総書記の元秘書、鮑(注1)トウ氏の証言は、政権の最奥部で事件を間近に見た1人として歴史的価値が高いものだった。事件は、中国をどう運命づけたのか、鮑トウ氏の証言を中心に改めて振り返る。(文責:中国総局記者 奥谷龍太)

(注1:鮑トウ氏の「トウ」=丹につくりは彡)

改革派と保守派

趙紫陽総書記の元秘書だった鮑トウ氏は、天安門事件は「(注2)トウ小平の陰謀」だと言う。

天安門事件が起きる前の1980年代の中国は、共産党主導で改革開放が進み、経済の改革だけでなく、政治改革もゆっくりとだが進んでいた。


(注2:トウ小平の「トウ」=登におおざと)
1982年から胡耀邦、1987年から趙紫陽と2代続いた改革派の総書記は、いずれも最高実力者のトウ小平が抜てきした人材だった。

当時、中国社会は貧しさの中にあり、医者の1か月分の給料でさえ、カラーフィルム1本が買えなかった。
生活は不便で、家や車も買えず、仕事も自由に選べなかった。「早く豊かになりたい」そして、豊かになるには、政治の面でも日本や欧米諸国のような民主主義制度にしなければならない。多くの国民がそう考えていた。

しかし、共産党内で隠然とした力を持っていたのは「保守派」と呼ばれた老幹部たちだった。

戦後、国民党との内戦に勝って中華人民共和国を建国した老幹部たちにとっては、共産党の1党支配しかありえない。共産党の1党支配を守りながら、社会主義経済から市場主義経済へ移行するというのは、まだどの国でも実現したことのない未知のプロセスだった。

1党支配を守るため

1989年4月15日の胡耀邦死去で始まった民主化デモには、報道の自由を求める新聞記者たちも参加していた。

胡耀邦の追悼特集として民主化の推進を呼びかける記事を書き、その後、取りつぶしとなった「世界経済導報」という新聞社がある。
当時、北京で主任記者を務め、現在はアメリカ在住の張偉国氏は、天安門事件の背景について、「戦略家のトウ小平は、政治改革が進んで言論の自由や汚職反対の声が高まれば、将来、1党支配が危うくなると早い段階で見抜いたのだと思う」と話す。

共産党は1党支配をなぜ守るのか、という素朴な疑問に対して、一般に中国では国情が複雑で政治が不安定になるから、などと説明されている。しかし、番組取材では、別の見方をする人のほうがはるかに多かった。

当時、デモに参加した元大学講師の男性は「共産党の幹部は、権力以外に何もない人たちだ。それを失うのが怖いのだ」と話した。また、別の元ジャーナリストは「権力に伴う巨大な利権を守りたいのだ」と話す。
この点は趙紫陽の元秘書だった鮑トウ氏も手厳しい。
「トウ小平は、改革開放で、条件のある者から先に富めと言った、条件がある者とは誰かというと、権力のある者のことだった。権力のない者も企業家として富むことは不可能ではないが、党の言うことを聞かなければ法律違反だとして拘束され、財産を没収されるのです」

権威を守るため

さらに鮑トウ氏は、天安門事件の背景として、保守派が1党支配を守ろうとした、ということ以外にさらに別の見方を示す。それは、胡耀邦前総書記(当時)の失脚をめぐって、トウ小平がみずからの権威を否定されることを恐れ、趙紫陽総書記(当時)を引きずり下ろした、というのだ。

天安門事件に先立つ1980年代の半ば。
中国では民主化を求めるデモが各地で散発的に行われ、胡耀邦は責任を取らされ、失脚した。失脚を最終的に決断したのはトウ小平だった。
1989年4月15日、胡耀邦が心臓の病気で急死した直後から、一部の学生たちが天安門広場で追悼の集会やデモを始めた。

そして、共産党主催の追悼式典をどのように開くか決める際に、趙紫陽総書記(当時)の党内での発言に、トウ小平は一気に危機感を感じたのではないかという。
「趙紫陽は、『学生たちにも追悼させよう』と言ったのです。そして、自分が更迭した胡耀邦を大々的に追悼しようとした。そこでトウ小平は、趙紫陽を必ず更迭しなければならないと考えた。そして、陰謀が始まったのです」
(鮑トウ氏)
これが最近、鮑トウ氏がたどりついた天安門事件のもう1つの背景だというのだ。
つまり、将来裏切られることへの猜疑(さいぎ)である。共産党の権力のトップは権威を傷つけられることを極度に恐れる。党内は盤石に見えて、実は微妙な力関係で成り立っているのだ。鮑トウ氏は言う。
「共産党の最高指導者は1つの間違いもあってはならない。その過ちに反対する者が現れ、敵になるからです。これは党内の闘争の残酷性、残忍性です。共産党の宿命のようなものなのです」

「陰謀」の天安門事件

改革派の胡耀邦や趙紫陽は、強引に政治改革を進めていたわけではない。すべてトウ小平の承認のもとで進めていた。

1987年の党大会で、重大な問題は国民全体で議論することや対話で問題を解決すること、さらに党と政治の分離などの改革が盛り込まれたのも、トウ小平の承認があってのことだった。

そして、党大会の直後の重要会議、中央委員会総会では、重要案件はトウ小平の指示を仰ぐ、と決められていた。

趙紫陽の、デモの学生たちと対話しようという方針も、この流れに沿ったものであって、当初はトウ小平も同意していたと鮑トウ氏は言う。すべてはトウ小平の承認がある。だからこそ、陰謀しかなかったのかもしれない。
トウ小平は、趙紫陽の外遊中に李鵬首相(当時)らを自宅に呼び、学生たちの行動を「動乱」、つまり違法行為だと決めつける社説を、4月26日に共産党の機関紙「人民日報」に書かせた、というのが鮑トウ氏の推論だ。
「必ず趙紫陽は失脚させなければならない。しかし、会議1回ではできません。失脚させると言えば、なぜ過ちがないのに失脚させるのか、と党内で問われる。だから、大きなことを作り出さなければならない。大きければ大きいほうがいい」
実際、4月22日の追悼集会を終えた学生たちは、中間テストが迫っていたため、すでにキャンパスの宿舎に戻っていた。しかし、自分たちの行動を動乱だと決めつける社説を見て怒り、一気に立ち上がり、デモの規模はさらに大きくなった。

いや、鮑トウ説によると、立ち上がらせられたのだ。
学生はやがてハンストへと向かい、デモは市民も参加するようになっていく。結局、学生たちもデモをするような状況を作られた。

強硬派と言われた李鵬も、保守派の前面に立たざるをえない状況を作られた。そして、趙紫陽が学生たちとの対話を望んだことも織り込み済みだったのかもしれない。すべてはトウ小平の手のひらの上のように見える。

党を分裂させた罪

鮑トウ氏は皆が忘れていることがあると言う。最大規模の100万人デモが行われた5月16日に共産党の最高指導部、政治局常務委員5人による会議が開かれ、「学生の愛国心を肯定する」という認識で一致し、翌17日朝の人民日報の一面で、学生の行動をたたえる趙紫陽の談話が報じられたことだ。

学生の要求は正しいと認めたうえで、ハンストをやめるよう求めたのだ。しかし、ここからが問題だ。17日、デモへの対応について結論を出すため、趙紫陽はトウ小平に相談の電話をしたが、午後に自宅に来るように言われた。行ってみると、前日に会議に出ていた政治局常務委員がすでに全員そろっていたのだ。
そして会議では、トウ小平の鶴の一声で戒厳令が決まった。わずか1日で180度ひっくり返ったのだ。しかもトウ小平は、趙紫陽にその戒厳令の執行、つまり鎮圧を命じる。

趙紫陽はその晩、秘書役の鮑トウ氏に言った。
「辞表を書いてほしい」

鮑トウ氏は声を荒げた。
「愛国心の肯定から1日で軍による鎮圧に変わるのですよ。こんな常務委員会はありえない」
そして、趙紫陽は党を分裂させたとして、解任という処分を受けることになる。その後、2005年に死去するまでの15年間、自宅で軟禁の処分を受け、遺族はいまだに遺骨の埋葬も許されない。

鮑トウ氏も8年間、機密を漏らしたという理由で監獄に入れられる。
「戒厳令を漏らしたのが罪だというが、私はそもそも戒厳令について何も知らず、19日の晩にテレビで李鵬が布告するのを見て初めて知ったのです」

改革が死んだ分岐点

鮑トウ氏は言う。
「胡耀邦、趙紫陽の改革は、人のための人中心の改革でした。しかし、その後の改革は権力を中心にした改革になりました。権力中心の考え方では、人を道具のようなものとして、ちりのようなものとして扱います」
「天安門事件は中国の改革が死んだ分岐点でした。改革は南巡講話で続いたと言う人もいますが間違いです。改革は死にました。もともとの改革の意味は、毛沢東的な政治を変えることでした。しかし、逆に事件は毛沢東的な政治を強化しました」
1989年6月4日、鎮圧の日。
最後まで広場に残っていた元大学講師の男性は「共産党は、天安門事件以降、市民に銃を向けた罪の重さが怖くて怖くて、1日も安眠できないのです」と話した。

鮑トウ氏は最後にこう言った。
「天安門事件は戦争でした。国と国との間の戦争ではなく、指導者と庶民の戦争でした。目的は庶民の指導者への服従で、それ以後、庶民は服従するしかなくなりました」
経済的には大きく発展し、豊かになった中国。

しかし、人々が政府を公に批判しないのは、共産党を支持しているからだけではなく、弾圧や監視の恐怖によって服従を受け入れている側面も大きい。

天安門事件によって確定した、批判を許さない強権的な政治は、30年後の今も続いている。