「9秒8は出る」 サニブラウン なぜ強い

「9秒8は出る」 サニブラウン なぜ強い
まさに「次元の違う強さ」だった。

2年ぶりに日本のトラックに帰ってきたサニブラウン アブデル・ハキーム。日本最高峰の舞台、日本選手権で100メートルと200メートルの2冠に輝いた。

日本記録の更新こそならなかったが、今シーズン好調の桐生祥秀や小池祐貴を寄せつけなかった走りは数字以上の強さを印象づけた。

日本男子短距離界の勢力図を大きく変えた今回の日本選手権。

一番近くでサニブラウンを取材したスポーツニュース部の山本脩太記者がその舞台裏に迫る。

東京五輪につながる舞台、日本選手権

世界一を目指すと公言するサニブラウン。

それを決めるのは、ことしであれば世界選手権。
来年はもちろん東京オリンピックになる。
その代表選考の場が日本選手権で、ここで勝つことが世界につながるのだ。

今大会の一番の注目は彼だった。
先月7日、アメリカ、テキサス州のオースティンで開かれた全米大学選手権決勝。彼は私の目の前で9秒97の日本新記録をマークした。

所属するフロリダ大学のチームで出場した400メートルリレーからわずか50分後のレース。

決して万全のコンディションではなかったが楽々と日本記録を更新した。

わずか1か月で2回目の9秒台だった。
それ以来のレースがこの日本選手権。

今シーズン好調の桐生祥秀や小池祐貴といった国内の猛者が待ち構える。

いやが上にも注目が集まった。

動じない心、王者の風格

日本選手権の舞台は福岡、博多の森陸上競技場。

大会前日の6月26日、私は競技場に先乗りしてサニブラウンの到着を待った。選手たちは屋外のサブトラックかスタジアムの中にある室内練習場のどちらかでウォーミングアップを行う。
屋外と室内を行ったり来たりしながら待っていると、彼はコーチやトレーナーとともに室内練習場に現れた。両耳にはいつもと同じ白のイヤホン。アメリカにいるときとまったく変わらないスタイルだ。

選手たちは、まず練習場に来たら、それぞれ畳1畳分ほどのエリアを確保する。そこが決戦を迎えるためのベース基地になるのだ。

彼が腰を下ろしたのは、何と中継カメラが構える三脚の目の前。

レース前、カメラを意識する選手は多く、ふつう選手はカメラが目に入らない場所を選ぶ。トレーナーから「ここでいいの?」と尋ねられたが、彼は「別にいい」と答えた。

結局、大会期間中ずっとこの場所に陣取ることになるわけだが、おかげでマッサージを受けるところや最後にユニフォームに着替えるところなど、彼の一挙手一投足が中継で伝えられた。

それでも全く動じない。

自分の世界に入り、レースだけに集中するかのような、堂々としたたたずまい。この時からすでにふつうではない王者の風格が漂っていた。

大会初日、スタートにてこずる

6月27日。大会初日、大雨の予報だったが天気はなんとかもった。

2年ぶりの日本選手権、最初のレースは大会初日の100メートル予選だ。

しかし、まさかの展開となった。
予選5組。スタートの号砲が鳴るが彼は誰が見ても明らかなほど出遅れた。

リアクションタイムは0秒212、最も速い選手よりも0秒099遅れ、出場選手中最も遅いタイムだった。
「セットしてすぐ号砲が鳴ったのは予想外だった。スタートで全部狂ってしまい、走りもバラバラになった」(サニブラウン選手)
予選のスタート(スロー再生)【左から3番目がサニブラウン選手】
中盤から伸びて10秒30のタイムで1着フィニッシュしたのはさすがだが、苦笑いするしかなかった。

映像で振り返ると、腰が上がるのがほかの選手よりワンテンポ遅かった。

号砲は全員が静止したのが確認されてすぐ鳴るのが原則だ。

彼が最後だった分、静止してすぐ号砲が鳴ったわけだ。

室内練習場に戻ってきた彼はすぐに修正に入った。

コーチがスターターとなって号砲の代わりに手をたたく。

腰を上げてすぐに合図を出し、日本の感覚に合わせていく。

1本走るごとに、コーチは彼のもとに近づいて細かくアドバイス。

もちろん英語でのやり取りだが、彼も自分の意見をコーチにぶつける。

綿密なコミュニケーションが行われていた。
「走り1本1本を大切にして、自分のやるべきことをしっかりコーチが指示してくれる。本当に親しみやすいし、コミュニケーションも取りやすく、自分のスタイルにあったコーチングなので本当に感謝している」(サニブラウン選手)
4時間後の準決勝。スタートはやや改善されたが、まだ遅

リアクションタイムは0秒180。
それでも中盤からは予選より1段階上の加速を見せて10秒05。
2年前、自らが出した大会記録にあっさりと並んでみせた。
「うまくいかないことは、まあいつも通りなので(笑)。号砲が早いのはもう分かったので焦らないことが大事」(サニブラウン選手)
レース後の余裕の表情を見て、決勝での9秒台決着が着実に近づいているように感じた。

大会2日目、100m決勝

大会2日目、いよいよ100メートル決勝。

レースの2時間前に会場入りした彼は、いつも通り準備を進めていた。

この日の練習を見ていて感じたことがあった。

ほとんど映像のチェックをしない。

選手によっては、自分のフォームをスマートフォンなどで撮影し、1本走るごとに確認する選手もいる。

もともとあまり映像を見ない桐生でさえ、ことしはそういった場面がよく見られた。
「感覚で、だいたいどういう走りをしているかはイメージできる。走りをどう作っていくのかはイメージしながらやっていく」(サニブラウン選手)
感覚を重視し、それを研ぎ澄ませる。気になった部分は映像を見る代わりにコーチと徹底的に話し合う。

これこそが彼のレースに向けた「自分の仕上げ方」なのだ。

雨が降ったこの日、彼はレース30分前になっても練習を続けていた。

もう室内練習場には誰もいない。

最後の1人になるまで体を動かし続けた。

トラックに向かったのは、出場選手の招集が完了する8分前だった。

ほかの選手が集中を研ぎ澄ます中、体を冷やさないように最後まで体を動かしていた。
日本選手権 男子100メートル決勝(ノーカット)
午後8時半の決勝レース。

会場に詰めかけた1万4000人の熱気は最高潮に達した。

残念ながら雨、コンディションは悪い。

注目のスタート、確実に改善されていた。

スタートは桐生に遅れたが、リアクションタイムは0秒154。

中盤からは爆発的な加速で一気にライバルたちを抜き去った。

注目のタイムは10秒02。
「あと100分の3秒だったので、何とも言えないタイム。走りとしては準決勝の方がよかった」(サニブラウン選手)
9秒台を狙っていたことを認める素直な反応だったが、降り続く雨、向かい風0点3メートルという厳しい条件のなかで、大会新記録で駆け抜けたのは立派だった。

すごさはタイムよりタイム差

ここで注目すべきはふたつのタイム差だ。
   0秒212  予選
   0秒180  準決勝
   0秒154  決勝

【 予選と決勝のタイム差 0秒058 】
   10秒02  1位 サニブラウン
   10秒16  2位 桐生
   10秒19  3位 小池

【 サニブラウンと桐生の差 0秒14 】
最初の数字はもうお気づきだろう、リアクションタイムの推移だ。

決勝に向けきっちりと修正してきたのが分かる。

タラレバになるが、桐生のリアクションタイム0秒129でいければ、10秒00もしくは9秒99も見えていた。

言い換えれば、スタートが修正されれば、確実に記録は伸びる

次の数字は決勝のタイム差だ。

雨、そして向かい風、さらにこの競技場のトラックは記録が出やすいとされるいわゆる高速トラックでははい。

しかも2位の桐生、3位の小池は今シーズン好調だ。

こうした条件を考えたとき、10秒02というフィニッシュタイムよりも、桐生につけた0秒14の差が際立つ。

見る人に圧勝と感じさせたこの差こそ、日本の短距離界でのサニブラウンの現在地と言っていいだろう。

「9秒8は出ると思っている」

勢いそのままに、その後の200メートルでも圧倒的な強さを見せて2冠を達成した。

日程をすべて終えた後、彼は4日間を過ごした室内練習場でNHKのインタビューに応えてくれた。

日本新記録の更新はならなかったが「やりきった感がすごい」と充実感たっぷりの表情だった。

「いまの力でどこまで記録を伸ばせるか」という私の質問にはさらりとこう答えた。
「しっかりやることをやれば、9秒8は全然出ると思っている」(サニブラウン選手)
9秒8。日本記録の更新どころではない、一気に世界の頂点まで駆け上がることのできる高い目標だった。

世界一になることを夢見て海外の大学に進学し、実力を伸ばしてきた彼にとって、日本記録の更新などほんの通過点に過ぎない。

頭では分かっていたが、改めて見据える目標の高さを思い知った。

「また強くなって日本に帰ってきたい」
大勢の観客の前、そう語ったサニブラウン。

どこまで大きな存在になるのか、来年世界のファイナリストになって帰って来たとしても何も不思議ではない。
スポーツニュース部記者
山本脩太