消えゆく「裁判官」

消えゆく「裁判官」
裁判所から裁判官がいなくなったら、どうなるのかーー。そんな冗談のような事態が、現実の世界で起ころうとしています。しかも、国際的な貿易紛争に判断を下すWTO=世界貿易機関のいわば最高裁に相当する組織で。アメリカ・ファーストを掲げるトランプ政権の誕生をきっかけにじわじわ進んできた事態ですが、「自由貿易の番人」とも言えるWTOがいまや機能不全の寸前にまで追い込まれているのです。まもなく始まるG20大阪サミットでもテーマとなる、この「WTO改革」。問題解決への道筋をつけることができるのか注目されます。(経済部記者 宮本雄太郎)

そして、誰もいなくなる?

各国の利害がぶつかる貿易紛争で、国際的なルールをもとに調停や審理を行う世界で唯一の機関=WTO。大国による保護主義が第2次世界大戦を招いたとの反省から生まれ、「自由・無差別」を原則として、国際的な貿易ルールも定めてきました。
その最高裁にあたるのが「上級委員会」です。しかし、おととしから新しい委員が選任されず、本来7人いるはずの委員は、現在3人。審理を行うには最低3人の委員が必要ですが、このうち2人が12月で任期切れになります。つまり、このままでは年内には委員が1人だけとなってしまい、紛争解決のシステムが機能を果たせなくなるおそれが出ているのです。

なぜ、新しい委員が選任されないのか。答えは単純明快で、アメリカのトランプ政権が拒否しているからです。
164の国と地域が加盟するWTOでは、意思決定の方法は原則として全会一致。つまり、どこかの国が反対すれば、新しい物事が決められない仕組みで、それがあだとなった形です。トランプ大統領は「WTOは、アメリカを非常にひどく扱ってきた!」などと述べ、不当に中国などに有利になっているとして、上級委員会の選任を拒み続けています。

日米欧それぞれの立場

一方、EU=ヨーロッパ連合は、こうしたアメリカのふるまいに反発を隠していません。ルールに基づく紛争解決を重視し、上級委員会をなんとか原状復帰させようという立場で、最近の国際会議やアメリカとの会合では、ことあるごとに意見が対立しています。

ことしG20の会合で議長を務める日本は、委員会の仕組みを手直しする必要性は認めつつも、ルールに基づく紛争解決のシステムそのものは守るべきというのが基本的な立場です。つまり、日米欧で考え方が異なっているのです。
6月上旬、茨城県つくば市で開かれたG20貿易担当閣僚会合。大阪サミットに向けての地ならしとなるこの会合でも、EUは「声明で上級委員会について触れないのであれば、われわれは了承しない」という強い姿勢を打ち出しました。会合本番の前夜を迎えても、成果となる閣僚声明の取りまとめが見通せず、議長の世耕経済産業大臣は「交渉官たちは眠れない夜になる」と述べ、調整の難しさをにじませていました。

眠れない折衝

閣僚会合で声明を出せなければ、首脳レベルのサミットでWTO改革への道筋をつけることが絶望的になります。危機感を強めた日本がまず取りかかったのは、アメリカへの働き掛けでした。
会合前夜の夜9時、世耕大臣は、欠席を決めていたアメリカのライトハイザー通商代表に電話をかけます。代理の出席者では難しい判断はできないと踏み、セットしていた電話会談でした。

この場で日本側は、EUが強く求める上級委員会の改革に取り組む表現を認めるよう求めます。アメリカはこれまで、国際会議の声明の中で上級委員会に触れる表現を拒んでおり、厳しい回答も予想されました。

しかし、ハードネゴシエイター=手ごわい交渉人とされるライトハイザー通商代表も、日本側の再三の要請を受けて、ついに譲歩する姿勢を示しました。「上級委員会を“改善する”という表現ならいい」
アメリカから“カード”を引き出した日本。事務方の寺澤経済産業審議官と山崎外務審議官が、すぐさまEUの代表団と会談し、アメリカ側の意向を伝えます。

EU代表団はアメリカの譲歩に好感触を示しながらも、ブリュッセルにある本部の意向を確認するため、いったん返答を保留。日付が変わった深夜2時、EUが示した返答は、“改善する”はノーだ。上級委員会の制度を“保証する”にしたい」。双方の隔たりが大きいだけに、折衝は日も高くなった昼前まで続きましたが、最終的には“行動が必要である”という文言で決着しました。

アメリカとEU、それぞれが受け入れた“行動が必要”という文言。EUから見れば「上級委員会を元のように機能させる行動が必要」と解釈できる一方、アメリカは「途上国に有利な上級委員会を変えるための行動が必要」とも解釈できる、いわば玉虫色の表現ではあります。しかし、日本としては、アメリカとEUの間で「緩衝材の役割を果たした」(経産省幹部)形で、これを土台にサミットでも具体的なメッセージを強く打ち出したい考えです。

いざ、首脳会合へ

G20の声明は、条約やFTAなどの貿易協定と違って法的な拘束力はありません。それにもかかわらず、アメリカとEUの間で声明をまとめるだけでも大きな労力を要するというのは、それだけ戦後の自由貿易体制の基盤が揺らいでいるのだと言えます。

サミットでは、トランプ大統領に加えて習近平国家主席、プーチン大統領などが集う中、各国の思惑がさらに交錯する事態が予想されます。経済官庁のある幹部も「つくばと同じ成果が大阪で得られる保証はない」と危機感を示しています。閣僚会合の成果をきっかけにして首脳レベルでも合意を取り付け、WTO改革を前進させることができるのか。日本の手腕が問われる場になります。
経済部記者
宮本雄太郎

平成22年入局
札幌局をへて経済部
現在 経済産業省担当