ラガーマンの親知らずは“宝”

ラガーマンの親知らずは“宝”
「ラグビー選手の親知らずを役立てる新たなプロジェクトを始めます」
そう耳にしたのは2月のこと。スポーツ担当記者の私の頭の中は「???」の文字でいっぱいでした。いつもとは勝手が異なる「歯」について取材を進めると、奥歯のさらに奥にある親知らずの、そのさらに奥に「宝」がありました。(スポーツニュース部記者 佐藤滋)

親知らずが再生医療に

昭和大学歯学部 芳賀秀郷歯科医師
冒頭の話をしてくれたのは昭和大学歯学部でスポーツ歯科を専門とする歯科医師、芳賀秀郷さん。「4月から動き始めます」ということだったので、早速、取材を申し込みました。

4月下旬、芳賀さんは教室の壇上にいました。しかし、自分の大学ではありません。横浜市にある日本体育大学のキャンパスです。

医系の総合大学である昭和大学は「スポーツ運動科学研究所」を4年前に横浜市に開設。近くにある日体大の運動部を医学の面からサポートしています。その縁から今回のプロジェクトは生まれました。
教室に集まったのは日体大ラグビー部の部員たち。芳賀さんがプロジェクトについて説明しました。
▽親知らずはプレーにおいてリスク。あごの骨の骨折のリスクが2倍から3倍に上ると言われている
▽あごの骨を骨折すれば、競技を離れる期間は半年から1年。小さな親知らず1つのせいでそうなればもったいない
▽抜いた親知らずは“再生医療”につながる可能性がある
熱っぽく語りかける芳賀さんのことばに、心優しいラガーマンたちが反応しました。
参加したラグビー部員
「痛いのは苦手なのでちょっと心配ですけど…人の役に立つと聞いたので抜こうと思います」

捨てないで、その歯

生えているだけであごの骨折のリスクが2倍から3倍になる親知らず。激しくぶつかり合うスポーツ、ラグビーでは抜くことが求められます。それでも歯を抜くのはちょっと…という部員は少なくありません。

また、せっかく抜いてもその歯は「医療廃棄物」のため捨てられるのがほとんどです。部員たちに歯を抜くモチベーションを持ってもらえないか。そして、その歯を、なんとか生かせないか。芳賀さんたちのグループは再生医療に取り組む企業に声をかけました。

「宝」=「歯髄幹細胞」

その企業のパンフレットです。「抜いた歯にはすごいパワーが!」というタイトルの下に強調されているのは歯髄(しずい)細胞と呼ばれる細胞の重要性です。

この細胞の中にある「幹細胞」が再生医療に活用される「宝」だといいます。幹細胞は骨髄やさい帯血からも採取することができますが、歯髄には次のようなメリットがあることがこれまでの研究でわかっています。
▽体への負担やリスクがなく手軽に採取できる
▽細胞の増殖能力が高く短期間の培養でたくさんの幹細胞を得られる
▽歯という極めて硬い組織に守られているため遺伝子が傷がつきにくい
歯髄幹細胞は、神経など体のさまざまな細胞に変化する性質を持っていることがわかっているため、脊髄を損傷した人の神経やあごを骨折した人の骨の回復などに役立つと期待されているのです。
ジーンテクノサイエンス事業開発本部長 紅林伸也さん
「まだまだ研究開発の段階にはあるがいろいろな疾患に使える可能性のある細胞だとみている。再生医療を進める上で安定して採取できるメリットもある」

早速、そして慎重に

長沼勇冴選手
動き始めた新たなプロジェクト。5月下旬、早速、日体大ラグビー部の部員の1人が昭和大学の病院を訪れました。3年生の長沼勇冴選手です。長沼選手のポジションは、ひときわ体格のよいフォワードの最前列、プロップ。ただ、グラウンドとは異なり少し不安げな表情でした。
抜歯が始まりました。奥歯の奥にある親知らずは横向きに生えていました。

麻酔をしてあごの骨を削りますが一気に抜くことはできず、いくつかに割って取り出し、40分余りで抜歯を終えました。
抜いた親知らずは「宝」です。施設に送るため特殊な溶液の中に入れて慎重に保管されました。
「麻酔が効いていたので痛くなかったです。役に立ってもらえればうれしいですね」(長沼選手)

徹底管理の施設で

抜歯から3日後、東京 江戸川区にある細胞を加工する施設で長沼選手の親知らずから歯髄細胞が取り出されることになりました。ちりやほこりを徹底的に防ぐため私たち取材陣も特別な服を着て、帽子、マスクをしたうえで撮影をしました。
小さな親知らずから取り出されたのはわずか数ミリほどの歯髄細胞。

この細胞から幹細胞を取り出し液体窒素のタンクでマイナス150度以下で保管します。その後培養させるなどのプロセスを経た歯髄幹細胞は医療機関で患者に点滴で投与したり、新たな薬の開発に使われたりします。

長沼選手の親知らずは再生医療につながる新薬の開発に向けた研究に役立つということです。

実際に症状が回復した脊髄損傷患者も

親知らずによって症状が回復している脊髄損傷の患者は実際にいます。
福岡県に住む30代の男性です。高校生の時、体育祭の騎馬戦で落下して脊髄を損傷、首から下が動かなくなりました。

再生医療に取り組む企業を知った男性。5年前、みずからの親知らずから取り出した歯髄幹細胞を点滴などで投与されると、徐々に症状が回復していきました。
こちらは4年ほど前の画像です。いまでも車いすでの生活は続いていますが最近ではまっすぐ強いボールが投げられ歩く機能も回復しているということです。

スクラム組んで

今回は親知らずを中心に取材しましたが、若くて健康な細胞が多い乳歯は再生医療にとってより有効だということも分かっています。

昭和大学歯学部の芳賀さんは、ラグビーワールドカップの開催まで100日を切った今だからこそ、ラガーマンたちの小さな「歯」に注目が集まることで善意の輪が少しでも広がればと考えています。
芳賀秀郷さん
「仲間、そして相手チームのことも思い合う精神があるのがラグビー。激しいコンタクトで自身も脊髄損傷などのリスクもある選手たちにプロジェクトを前向きに考えてもらい社会的にも意義のある取り組みになればうれしい」
大学と企業が強力な「スクラム」を組んで進める新たなプロジェクト、今後も注目していきたいと思います。
スポーツニュース部記者
佐藤滋