マスクを外せないあゆみさん~摂食障害で歯が溶ける

マスクを外せないあゆみさん~摂食障害で歯が溶ける
あゆみさんはゆっくりとした足取りで、自転車を押しながら待ち合わせ場所に来てくれました。ゆっくりなのは体力がないためで自転車は乗るのではなく体を支えるためでした。口には大きめのマスクをしていて、それは歯を失った顔を隠すためでした。全国で数十万人いるとも指摘されている病気は心も歯も溶かすことが、いまようやく知られるようになってきました。
「このおばあちゃん、誰だよ」そんなつぶやきに心が痛みました。
(ネットワーク報道部記者 吉永なつみ)
あゆみさんは35歳。汗ばむほどの陽気の日に、毛糸の帽子を目深にかぶっていました。
「下の前歯3本をのぞいて自分の歯はありません」
歯を失うきっかけとなった摂食障害を発症したのは18歳、高校を卒業した時でした。

進学先で

小学校から高校まではずっと合唱部でした。何もかも忘れて歌うことに集中する心地よさ、仲間との一体感、それが好きでした。

しかし周囲の強い勧めもあって音楽大学の声楽科に進んだ時、壁に突き当たります。自分が本当にやりたい音楽と違っていたのです。

人に決められた道を進んだことで感じるようになってしまった違和感。何のために歌うのか、分からなくなりました。

体重は思いどおりになる

そんな戸惑いや不安を忘れさせてくれるものがありました。

それがダイエット。食事を抜くだけで1キロ、また1キロと減っていく体重。
「歌が楽しめなくなり、ほこれるものや自信が持てるものがなくなりました。でも体重だけは食べなければ確実に減って自分の思いどおりになる、痩せることだけが自信になっていきました」
「痩せたね」
「かわいくなったね」

周りのそんな声もダイエットを後押ししました。

恐怖から逃れるために…

「体に取り込むのを許せるのは飲み物だけ」

体重に固執するあまり、野菜ジュースや栄養ドリンクをちびちびと分けて飲むだけの生活になりました。

固形物を食べたら体重が増えてしまうと思い、食事は恐怖に変わりました。恐怖から逃れるために始めたのが食べてすぐ吐くことでした。
「食べたら、吐けばいい」
そう考えるようになっていきました。クッキー、チョコレート、かりんとう、菓子パン…

20代前半は甘い物を大量に食べてはトイレで吐くことを、毎日繰り返していました。60キロあった体重は35キロまで落ち、階段ものぼれなくなりました。冷や汗やどうき、手足のしびれも起きました。

歯に異変が起きたのはその頃でした。甘いものによる虫歯に加えて、歯が溶けてきたのです。溶かしていたのは吐く時に出る胃酸です。

このおばあちゃん、誰?

胃酸は歯の表面を覆う硬いエナメル質を溶かします。さらに続けて吐くと歯の内部の神経が露出するようになるのです。

あゆみさんの口の中はまさにそうした状態で、もろくなった歯を差し歯にする治療を受けましたが、その間も食べ吐きはやめられず、治してもすぐに差し歯がとれました。
「歯が根元からボロボロです。上の歯は全部抜いて、入れ歯にしたほうがいいです」(歯科医師)
治療を受け前歯がなくなった自分を鏡で見ました。
「このおばあちゃん、誰だよ」
心でつぶやいたのはまだ28歳の時でした。

悪循環

入れ歯をしましたが、食べ物の温度や食感が分かりにくくなりました。
「歯がないこともストレスになってしまい、よけい食べ吐きにぶつけてしまう。悪循環が始まりました」
歯科の治療中にストレスからパニック障害の発作が起き、治療から足が遠のくようになりました。歯の痛みを紛らわせるためにも食べ吐きをするようになり、やがて残っていた下の歯も抜かなければならなくなりました。

自分の歯をほとんど失ったいま、食事の時に入れ歯をしますが肉などの硬いものは噛み切ることができず、くたくたに煮込んだ麺類や豆腐が食事の中心です。
「本当はおいしく食べたいし、楽しく食べたいし、笑って食べたい。それができないストレスを、よけい食べ吐きにぶつけてしまう。悪循環です」

患者の7割が…

実は、あゆみさんのようなケースは珍しくありません。摂食障害の患者の歯の治療に取り組む日本歯科大学附属病院の歯科医師、大津光寛さんを訪ねました。
大津さんはこれまでにおよそ100人の治療に携わっています。大津さんの研究チームが摂食障害の患者87人の歯の状態を調べたところ、72%にあたる63人が同じ年代の平均より虫歯が多く、さらに20人は吐くときの胃酸で歯が溶け、神経が透けて見える重症の状態でした。

分厚いカルテ

大津さんが最初に摂食障害の患者を診たのは15年前です。知り合いの歯科衛生士から「何度虫歯の治療をしても治らない人がいるので一度診てほしい」と頼まれました。

紹介されたのは30代前半の女性。過去の治療記録を見て驚きました。
「10センチもある分厚いカルテでした」
女性は大津さんのもとにたどりつくまでの8年間、複数の歯科を転々としていました。すべての歯、合わせて60か所以上に治療の記録があったのです。
初診で口の中を診ると、ほとんどすべての歯が胃酸で溶け、前歯が短くなっています。奥歯の虫歯を削って詰めた金属は周りの歯が溶けて浮き上がり、今にも外れてしまいそうでした。

さらにすべての歯が冷たいものがしみると訴えていました。
「虫歯だけを治療しても、ダメだ」
そう、考えました。

歯が痛くて“座って寝ていた”

忘れられない患者の話もしてくれました。思春期のダイエットをきっかけに拒食症になった女性。高校を卒業したあとに就職した会社で人間関係に悩み、食べ吐きが始まります。

食べ吐きを繰り返す生活が2年ほど続いた時、歯が痛みだしました。虫歯の治療をしてもすぐに詰め物がとれてしまい、4時間おきに鎮痛剤を飲んでも痛みが消えません。横になると痛みが増すため、夜は座って寝ていたといいます。

そんな生活のストレスから摂食障害の症状はますます悪化。あるとき歯が痛いために食べ物をかまずに丸飲みして吐いていたところ、食道が傷ついて吐血。窒息して救急搬送されました。摂食障害と歯の問題が命にかかわる事態も起きていたのです。

女性も10か所以上の歯科医を転々としていました。
「出会った歯科医師のうち1人でも、もう少し摂食障害に理解と知識があれば、ここまで苦しむことはなかったかもしれません」(歯科医師 大津光寛さん)
大津さんの研究チームでは歯科医師が摂食障害の正しい知識を持つための研修を進めたり、心療内科や精神科と協力して総合的に治療を進めたりする体制を作ろうとしています。

摂食障害であることを歯科医師に打ち明けたところ、「吐くのをやめればいい」などと言われ、症状への理解がないことに傷つき治療をやめてしまった患者も多くいたといいます。

患者に寄り添えるよう、摂食障害の知識を広めようとしている背景にはこうした苦い経験があります。
「いちばんの歯の治療方法は摂食障害の改善です。“心の治療と歯の治療を両立させていく”ことが欠かせません」(歯科医師 大津光寛さん)

“食べることは生きることそのもの”

取材に応じてくれたあゆみさん、最後にこう言いました。
「摂食障害の人は少しでも歯の痛みを感じたらすぐに歯医者に行って、心だけでなく歯の治療も進めてほしい。後回しにするほど歯も心も状況がどんどん悪くなります。自分の歯で食べられることは本当に、本当にありがたいことだったと、こうなって痛感しています」
「私と同じ思いをする人をこれ以上見たくないんです」
そして、取材に応じてくれた理由をそう話してくれました。
歯科医師の大津光寛さんは、摂食障害で歯の問題を抱える人たちに向けて、歯を守る方法を次のように話しています。
・食べ吐きの症状がある人は吐いたあとに水やお茶などでうがいをしてください。

・吐いてから30分ほどたつと胃酸で溶けた歯の表面が硬くなるので、歯磨きはその後にしたほうが歯への影響が減らせます。

・拒食症でカロリー不足を補おうとふだんからアメやガムを口の中に入れている人は水でよくうがいをしてください。

・口の中の状況は人によって変わるため信頼できる歯科医師を探して定期的に受診をしてください。