ある無給医の死

ある無給医の死
白衣で笑顔を見せる若手医師。大学病院で徹夜で緊急手術にあたった後、アルバイト先の病院に向かう途中に交通事故を起こして亡くなりました。この医師、「無給医」でした。(社会部記者 小林さやか)

無給医たちの叫び

無給医とは、大学病院などで無報酬で診療にあたっている若手医師のことです。取材した当事者たちは、生計を立てるため、病院のアルバイトを掛け持ちし、疲弊し切っていました。

「うつになった」「心身共に限界」「いつか死ぬのではないか」

そんな悲痛な声も数多く聞きました。そこで、無給医が過去に最悪の事態に至ったケースはなかったか取材したところ、今から16年前の前田伴幸さんという若手医師の死にたどりついたのです。

志半ばの若手医師の死

私はその足跡をたどろうと前田さんの鳥取県にある実家を訪ねました。

取材に応じてくれたのは、亡くなった前田さんの母親、三女子(みなこ)さん(69)です。
当時のことを伺うと、こんな答えが返ってきました。
警察から連絡を受け、息子が運ばれた病院に行ったあたりから、あまりにショックで記憶があいまいなんです。
そんな母親の心情を思うと、話をうかがうことを一瞬、躊躇しました。しかし、三女子さんは「少しでも後に続く医師の役に立てたら」と息子の死について話してくれたのです。

小さな中華料理店を営んでいた前田さん一家。貧しさ故、自分たちは大学進学を諦めた両親にとって、長男の伴幸さんは自慢の息子でした。
なんで医者になりたいと思ったかは分かりません。だけど、小学生の時から大学に行って医師になりたいと自分で言っていたんですよ。
淡々と語る三女子さんでしたが、よけいにその無念さが伝わってきます。

伴幸さんは念願がかなって地元 鳥取大学の医学部に進学。花形の心臓外科医の道を選びました。

医師としての誠実な仕事ぶりが分かる手紙が残されていました。それはある患者の家族から送られたものでした。

そこには、「少しでも病気が楽になれるようにとお心を砕いて下さいました」と伴幸さんへの感謝の気持ちがしたためられていました。
そんな伴幸さんが交通事故を起こしたのは医学博士の学位取得も決まり、大学院の卒業を目前に控えた2003年3月8日のことでした。

裁判を決意させた教授の態度

午前8時ごろ、伴幸さんが運転する車は鳥取県倉吉市の道路で、対向車線にはみだし、トラックと正面衝突。事故で車は大破し、伴幸さんは命を落としました。
当時、遠く離れたアルバイト先の病院に向かう途中だった伴幸さん。警察の調べで、現場にはブレーキ痕はなく、伴幸さんの居眠り運転が原因とされました。

なぜ息子は事故を起こしたのか。三女子さんの脳裏をよぎったのが生前の伴幸さんの異常なまでの働きぶりです。

実家には、弟の結婚式と父親の還暦祝いの時しか顔を出しませんでした。その式でさえ、途中で帰っていました。

気になって訪れた下宿の部屋は散らかり放題だったといいます。

そんな生前の息子の様子を聞こうと、三女子さんは夫とともに、事故後、医局の教授に面会を求めました。そこで教授の態度に大きな衝撃を覚えます。
あまりにショックで何を言われたか覚えていません…。
こう話す三女子さん。記憶にあるのは若い医師を医局の駒としか見ていないかのような教授の態度だったといいます。
こんなところで息子は働いていたのかと本当にショックを受けました。このピラミッド構造の中、誰も何も言うことができず、息子も限界を超えて働いていたのではないかと直感的に感じたんです。

見えてきた常軌を逸した勤務

息子の事故死には、その異常な働き方が関係していたのではないか。三女子さん夫妻は民事裁判で事実を明らかにしようと動きます。

私は裁判を担当した松丸正弁護士に当時の話を伺いました。
判決から10年。しかし松丸弁護士は法廷で明らかにされた事実を鮮明に覚えていました。
伴幸さんは、大学院での『演習』として無報酬で診療行為を行っていました。しかし『演習』といってもそれは名目で、実態的には勤務ですよ。しかも、尋常じゃない長時間労働だったのです。
松丸弁護士らは、勤務記録すら存在しない中、大学から電子カルテの記録などを取り寄せ、実態を明らかにしました。

時間外勤務は月に200時間。一般に過労死ラインと呼ばれる月100時間の2倍を超えていました。

さらに事故前の1週間は、徹夜勤務を4日間こなし、そのまま通常勤務を行っていたことも分かりました。

亡くなる直前も、徹夜で緊急手術にあたり、そのまま仮眠さえとらずにアルバイト先に運転して向かおうとしていたのです。

『勉強しているのだから勤務ではない。責任ない』

この異常な勤務を伴幸さんが働いていた大学側はどのように裁判で説明したのか。

以下が大学側の主張の概要です。
▽診療行為はあくまでも院生だった本人が選択した「演習」であり勤務ではない。

▽アルバイトは、本人が希望し、自ら進んで行っていた。大学の業務とは関係がない。事故について大学には責任がない。

▽アルバイト先への移動は公共交通機関を使うように指導していた。車で移動したのは自己責任だ。
これを聞いて、私自身強い憤りが湧いてくるのを抑えることができませんでした。それは大学の主張に対してでもあり、16年もたった今でも、無給医たちが私に訴える状況と、あまりにも似通っていたからです。

裁判では「実態としては勤務医に近く、自由意志で業務を辞めることができたとはいえず雇用契約がなかったとしても、大学側には安全に配慮する義務があった」として、大学側の責任を認め、損害賠償の支払いを命じる判決が出されました。

「無給」はなぜ争点にならなかった?

しかし、この裁判で私にはどうしても引っかかる点がありました。

それは大学での診療が無給で行われていたことが裁判では一切争われていなかったからでした。大学で生活できるだけの給料が支払われていれば、伴幸さんもアルバイトに行く必要はなく、事故を起こすこともなかったのではないかと感じたからです。

この疑問を松丸弁護士にぶつけてみました。すると、少し考え込んだあと、こんな言葉を口にしました。
確かに、『演習』だから無報酬というのは違和感はありました。しかし、当時はそういうものだと思っていて、そこに問題があるということを私たちも気付くことができなかった。今思えば、きちんと裁判で争い判例を作るべきでした。

母の思い「医師も同じ人間」

亡くなった伴幸さんは、両親に負担をかけまいと、大学院の学費や生活費などを全て自分でまかなっていました。

別の病院でのアルバイトは、所属する大学病院が無給である以上、欠かせない生活の手段だったのです。

母親の三女子さんは「兄弟で自分だけ大学に行かせてもらって親には迷惑をかけられないと思っていたんじゃないかな」と振り返ります。
なぜ外科医を目指したのか、どんな医師になりたかったのか。

伴幸さんは、三女子さんのそんな問いに答えることなく、この世を去りました。
いつか孫の顔も見れたかな。親はそういうことを思います。息子が亡くなって人生が変わってしまいました。何もする気がなくなってしまって。夫ががんで亡くなったこともストレスが原因だったと思います。ずっと生き地獄でした。
取材の最後、三女子さんは、息子が命を落とした現場を案内してくれました。
見通しの良い直線の道路。ここを訪れるのは数年ぶりだということでした。
もし大学病院での勤務が無給ではなかったら、違う結果になっていたかもしれませんね。大学にとっては、若手の医師は駒のひとつかもしれない。でも皆、大切な同じ人間なんです。
三女子さんは、そうつぶやきました。

声を上げる勇気を

今回の取材は、無給医がいる状態を見過ごしてしまえば、単に本人がただ働きして、つらい思いをするだけでなく、本人、さらにはその周囲にも深刻な事態を招くのではないかと思ったのがきっかけでした。

そして、無給医の息子を亡くした三女子さんから話を伺い、その思いをさらに強くしました。

松丸弁護士も「今の社会情勢であれば、無給であることを裁判で争えば違法だと認められると思います。誰かが勇気を出して声を上げ、裁判を起こせば確実に世の中が動くと思うし、そうした支援をしたいです」と話しています。

皆さんはどのように思いますか? また医療関係者の方、こうした働き方のリスクは、ほかにもないのでしょうか? 私たちは取材を続けたいと思っています。

どうかご意見や情報をこちらまでお寄せ下さい。
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