診察室を飛び出せ! ある精神科医の挑戦

診察室を飛び出せ! ある精神科医の挑戦
ストレスの多い社会とも呼ばれる現代、精神疾患の患者の数が増え続けています。実は、私もその1人で、さまざまな症状と闘いながら今も向き合っています。患者にとって、何にも代えがたいのが、安心して診療を受けられる環境です。それを提供しようと、診察室を飛び出した佐賀県の医師に密着しました。(佐賀放送局記者 本田光)

受診すらままならない!

「家から出ることができず、病院に通えない」
「どんなに勧めても病院に行きたがらない」
精神疾患の人や家族が語ったことばです。受診すらままならない実態がかいま見えます。

佐賀県の60代の男性は、20代前半で統合失調症を発症し、徐々に症状が悪化。ここ数年は排せつや入浴もままならずほぼ寝たきりの状態です。

コミュニケーションをとろうとせず、病院に行くことをかたくなに拒む日々に、同居する親族も途方にくれていたといいます。
「病院に連れて行こうとした時もあったけれど、本人が嫌がるし無理やり背負っていくわけにもいかない。家族では手に負えないような状態で」(男性の親族)
診察する谷口研一朗医師(右)
こうした状況を変えたのは、佐賀県内で訪問診療を行う精神科医、谷口研一朗さん(49)でした。谷口医師は1年ほど前から月2回、訪ねてきます。

男性は、当初、体を触られるのを極度に嫌がり、呼びかけにも反応すらしませんでした。好きな歌手の曲を流したり、昔のテレビ番組を一緒に見たりと、根気強く関わり続けた結果、3か月が過ぎたころ、初めて笑顔を見せたといいます。

最近では、呼びかけに首を振ったり、手を動かしたりすることもあります。診察を嫌がることもなくなり、意思疎通も少しずつ図れるようになってきました。
「天気のいい日なんかはニコニコしている時もある。医師や看護師が来る時間だけでも、本人が楽になるならありがたい」(男性の親族)

生活をみないと治療はうまくいかない

谷口医師が訪問診療に取り組むようになったきっかけは、勤務医だった14年前、ある患者との出会いです。この患者は、予約の時間にこないなど不安定で、診療が困難でしたが、自宅を訪ねると、病院とは違う表情を見せたのです。
「穏やかな表情で、お茶やお菓子を出そうとする姿を見て、苦しい時間はあるけれど生活している時間もちゃんとあって、生活の部分もきちんと見ないと治療はうまくいかないと思いました」(谷口医師)
谷口医師はこの後、積極的に患者の自宅を訪れるようになりました。

病院に対する不信感

訪問診療で、症状が改善した患者もいます。
50代の女性は、統合失調症を発症した20代の時、意思に反して1か月間入院させられました。入れられたのは、窓も時計もない個室。薬の影響で体を動かせないまま過ごした記憶が今も鮮明に残っているといいます。
「恐怖でした。このまま死ぬのかと思いました。鉄のとびらが閉められたのを今でもはっきり覚えています」
病院に対する不信感から、治療を避けるようになってしまいましたが、訪問診療を知り、かけてみることにしたのです。

花咲く河原が診察室

この日、谷口医師は、近くの河原に女性を誘いました。散歩しながら雑談したあとさりげなく最近の症状を聞き始め、表情や発することば、話の内容を慎重に探りながら、薬の種類や量を判断します。

女性が訪問診療を受けるようになって3年。信頼関係ができ、治療に前向きになった結果、最近は症状も安定してきています。
「病院の診察室とは全然違います。たあいない話をしながら、少しずつ(症状が)よくなっていって。谷口先生は1人の人間として扱ってくれる」

支援はチームで

谷口医師1人で患者に向き合うわけではありません。包括的地域生活支援プログラム=ACT(Assertive Community Treatment)にもとづいて、医師や看護師、精神保健福祉士、作業療法士などがチームをつくっています。

「アウトリーチ」と呼ばれる訪問活動を中心に就労や生活のサポート、家族の支援などに365日対応します。重い精神障害の人が地域で暮らせるよう支援し、可能なかぎり自立した生活を送ることを目指しています。
谷口研一朗医師
「従来の支援は“自発的”に、または“どうにかして”受診させることから始まるので、家族も諦めてしまいます。訪問診療は早期支援、早期治療に結び付き、問題が大きくなる前に介入することができます」

普及は道半ば…

1960年代後半にアメリカで始まり、半世紀近くの歴史があるこのACT。日本でも、16年ほど前に導入されましたが、広がりは限定的です。
一方で、精神疾患で入院や通院する人は平成26年に全国で392万人。15年間でおよそ2倍に増えています。

できるだけ地域で暮らしてもらう方針にのっとって、国は3年前から精神障害にも対応した多職種による「アウトリーチ」への補助事業を始めましたが、精神科に特化した訪問型の診療所は限られています。

ACTの普及や制度化を目指して活動している「ACT全国ネットワーク」によると、登録しているのは、全国14の医療機関にとどまっています。(2019年5月現在)

地域で患者支える仕組みを

私も精神疾患を患って長期間休職し、今も治療を続けています。症状がひどい時は外出するのもおっくうで、薬を飲み自宅で1人静養していると、社会から取り残されたように感じ、不安が膨らみました。

この取材を始めたのも、あの時、訪問診療を知っていれば、回復が少しは早まったのではないかという思いからです。

今回、本人の厳しい状況はもちろんのこと、思うように支えられない周囲の人たちの苦しみも目の当たりにしました。

1人でも多くの人が1日も早く元気を取り戻せるよう、患者を地域で支える仕組みが広がってほしいと心から願っています。
佐賀放送局記者
本田光