平成の死とは何か 遺体と向き合い続けた法医学者のメッセージ

平成の死とは何か 遺体と向き合い続けた法医学者のメッセージ
『死人に口なし』。すでに死んだ人は証言や抗弁ができないことをいう慣用句です。しかし、その遺体に耳を傾け、文字どおり“声なき声”を代弁する仕事があります。法医学者です。鹿児島県ではこの春、1人の法医学者が現場を去りました。平成の30年にわたって“死”に向き合い続けてきた中で何を思い、何を感じたのか。1年にわたって追いかけました。(鹿児島放送局記者 高橋太一)

法医学者との出会い

記者になって初めて赴任した鹿児島で、私は警察担当として事件事故の取材に明け暮れていました。

ある日、警察官との雑談の中で、「鹿児島の司法解剖を長年務めてきた法医学者が定年を迎えるんだって」という話を聞きました。警察官の何気ないひと言。取材メモを読み返しているうちにいろいろな考えが浮かんできました。「解剖って何をするのか」「何体くらい解剖したのか」「どんな遺体を見てきたのか」「そもそも怖くないのか」

“死”と向き合うという未知の世界。強い興味に突き動かされ、この法医学者に会うために鹿児島大学の研究室に向かいました。

1150の死と向き合って

小片守教授(当時)。鹿児島大学大学院の法医学研究室の先生でした。表情を変えずつぶやくようなあいさつで出迎えられ、最初は、あまり多くを語りたがらない人に見えました。

小片さんは法医学者として、平成2年から、県内で起きた事件や事故で亡くなった遺体の解剖にあたり、死因を究明してきました。向き合った遺体は平成の30年間で実に1150体以上。私が最初に尋ねたのは「解剖とはどんな仕事なのか」というシンプルな質問でした。小片さんはこう答えました。

「亡くなった人が言い残したことを語る『代弁者』みたいな仕事です」

遺体の声を聞く。私の想像を超える答えでした。

「死んだら遺体は嘘を言えない。遺体を見れば分かります。私にとっては、生きている人のほうが怖い。人間は平気で嘘をつくから」

正しい判断を~人々の死に向き合う~

小片さんに案内された1室。扉の上には「剖検室」の名札。

私が取材に訪れたその日も解剖がありました。なま暖かい部屋の空気からはときおり強烈な臭いが鼻の奥を突き刺しました。部屋の中央にある緑色の台。遺体が載せられる解剖台です。遺体の頭を載せる部分だけは枕を置くため、塗装がはげています。むき出しになった金属部分の光沢が、数々の解剖を物語っているように思えました。
小片さんは平成の30年、ずっとこの部屋で人々の死と向き合ってきました。

「本当に正しい判断ができたのだろうかと今も急に不安になることもある」

その真意を尋ねました。

「生きているうちは自分たちと同じように泣いたり、笑ったり、怒ったり、喜んだり、普通の生活をしてきた。生きていた人が亡くなって解剖台の上にいることを忘れず正しい判断をするよう努力してきた」

「平成」衝撃事件の解剖

解剖の現場にいた30年で最も衝撃を受けた出来事は何か。

小片さんは、書棚にあった当時のメモをおもむろに取り出しました。平成13年に起きた北朝鮮工作船事件です。
平成6年生まれの私にも、おぼろげながら記憶にあります。北朝鮮の工作船と海上保安庁の巡視船との間で銃撃戦になり、その後、自爆とみられる爆発を起こして沈没。8人が死亡、2人が行方不明。当時、ニュースで大きく報じられました。銃撃戦となった現場は、奄美大島沖の東シナ海。小片さんは当時の様子をきのうのことのように鮮明におぼえているといいます。

年の暮れ、海上保安庁から解剖が依頼されました。

「仕事納めの日で、暖房を入れてもすごく寒かった。うちの回りに記者さんがたくさん詰めかけていました。そのときは解剖するかしないか国でもめていて」

18年前に書いたメモを手に取りながら、解剖の生々しさを振り返ります。
「全部で7体解剖しましたが海底に沈んでいた遺体は古く、臓器もほとんど分からなくなっていました。最後の4体は完全な白骨でした」

国際問題にまで発展した北朝鮮工作船事件。平成を代表する大事件だと思った私の考えとは裏腹に、小片さんからは達観した感想が返ってきました。

「遺体になったら何を考えていたかまでは分からない。解剖台の上にある遺体はみんな同じ人間です」

平成で加速する高齢者の死

一方で、小片さんが言葉を詰まらせながら語ったのが「平成を象徴するような忘れられない解剖は何か」を尋ねたとき。小片さんはある高齢女性の遺体について語り始めました。
私が目にしたのは実際の現場の写真。2人の人間が小さな風呂場の浴槽に押し込められたように折り重なっていました。いずれも80代の女性、姉妹でした。あまりの悲惨な光景に、初めて見たときは「殺人事件だと思った」と語った小片さん。ところが、解剖をどんなに進めても事件性が見当たりません。逆に、浮かび上がってきたのは、姉妹の悲しい最期でした。
「1人は溺死だったが、もう1人は溺れた形跡が出てこなかった。おそらく最初の1人が溺れた後、助けに来たもう1人が心疾患で亡くなった事例だと思いました」

声をあげても誰からも気付いてもらえず、助けも来ないまま、浴槽で相次いで亡くなった80代の姉と妹。2人の死は、高齢者が社会から孤立し、人知れず亡くなっていく今の社会を如実に表していると語りました。

「2人の高齢者が寄り添うように生きてきて、何かが起こったときに助けることができない。若い人が近くにいたら助かったはず。高齢社会になって、そういう孤独死とか事故死が増えてきたと思います」

平成で顕在化した「虐待」

小片さんが取材の中で最も表情を変えた瞬間がありました。それは、私が「虐待」ということばを口にしたときでした。痛々しい傷が残る遺体との対面は毎回耐えがたい気持ちになったと振り返ります。

鹿児島に来てまもない平成の初めごろ。助教授時代に、虐待で亡くなった4歳児の遺体に接しました。小さな“なきがら”が今でも脳裏に焼き付いているといいます。
「新しい傷に古い傷、200以上あったと思います。子どもには何の罪もなく、自分で逃げることもできない。やるせない気持ちになります。早い段階で助ければ亡くなることもなかったし、犯人も刑務所に行かずに済んだ。虐待はどこかで断ち切れば必ず防げるはず」

小片さんは深い傷を負って心を閉ざした子どもたちの声にも耳を傾けてきました。

「なかなか傷を見せてくれない。親が怖いのか、自分から傷を見せようとしない。かなり長い時間、おびえながら生活してきてかわいそうだと思いました」

「平成」とはどんな時代だったのか

多くの人の「死」を通して人々の暮らしや社会を見つめてきた小片さん。私は取材の締めくくりに、「平成とはどんな時代だったか」と尋ねました。

「真実を知りたいという望みが増えてきたと思います」

「平成19年の時津風部屋の暴行死事件などが明るみになる中で、社会の中に“真相が隠された犯罪があるんじゃないか”という不安が生まれたのだと思う。昔は解剖なんて絶対されたくないという遺族が多かったが、今は解剖してほしいというご遺族が増えている。どうしてこの人は亡くなったのか、“最期”を知りたいという風潮が強まったのが平成という時代だったのではないか」

死へのまなざしが大きく変わった時代。小片さんは最後にこう締めくくりました。

「社会情勢の鏡として解剖があります。亡くなった人の死をむだにせず生きている人に役立て、不幸な死をひとつでも減らす。次の時代はそんな社会になってほしい」

小片さんは、鹿児島大学での解剖を後進に譲り、現在は長崎県の高齢者施設で医師として働いています。ただ、これからも依頼があれば検視などに関わり、平成の次の時代の“死”にも向き合いたいと語っていました。

「自分が生きているかぎりは、遺体から離れられないだろう」