合併の現実 自立の理想

合併の現実 自立の理想
存続を諦めた町がある。
意地でも自立を貫いた町がある。
「平成の大合併」人口減少の時代に、多くの自治体が、合併か、自立か、その選択を迫られた。
あの時の判断は、正しかったのか。
いま、そんな住民の声が聞こえてくる。
(新潟放送局 長岡支局 山下達也/長崎放送局 佐世保支局 櫻井慎太郎)

地震で「消えた」町

巨大な地震で、存続を諦めざるを得なくなった。

そんな町があることを、ご存じだろうか。
新潟県中部の川口町。いまは長岡市の一部だ。コシヒカリで有名な魚沼市に隣接する、のどかな田園地帯にある。
9年前、当時人口5000人だった川口町は、県内第2の都市である長岡市と合併した。人口差は50倍以上。対等合併ではなく、「吸収合併」だった。

川口町は平成16年の新潟県中越地震で震源となり、阪神・淡路大震災以来となる最大震度7を観測した。町内では6人が死亡、町の8割の住宅が全半壊する大きな被害が出た。
その震源地の上に田んぼがあった農家・星野秀雄さん(78)。震災発生時の様子をいまも鮮明に覚えている。
「身動きがまったく取れず、家財道具はめちゃくちゃになった。口では説明できないほどの恐怖だった」

土砂崩れによって、 星野さんの集落は5日間孤立した。自分たちで重機を動かし、ようやく車1台が通れるようにして、孤立を解消させた。

余震が続く中、公民館でおよそ1か月、避難生活を強いられた星野さん。
「震源地」にある田んぼは、土砂をかぶって原型をとどめていなかった。
作付けを再開できるまで、2年が経過していたという。

そして地震のあと、川口町では6年間で約600人が別の地域に住まいを移し、人口減少が加速した。

星野さんは、話す。
「農業を諦めざるをえない人もいた。道路が元に戻っても田んぼが使えなかったり、田んぼはよくても道路が使えなかったり。人がいなくなるのは、残念としかいいようがないけど、仕方がなかったかなとも思う」

「合併推進派」町長に

立ち行かなくなったのは、住民の生活だけではない。以前からの財政難に拍車がかかり、町の存続そのものが危ぶまれる事態となった。

川口町では中心部の商店街の30の店のすべてが被害を受けていた。
商店街の核であったスーパーは1階部分が押しつぶされ、仮設の店舗での営業を余儀なくされた。新潟県の調査では、地震の1年後の段階で、営業を再開できた店舗でも売り上げが平均で2割減る大きな被害となった。中心商店街の被災と、多くの住宅の損壊。住民の流出も進み、財政は急速に悪化した。

もはや、合併しかない。そういう声が上がり始めた。
地震の翌年に行われた町長選は、近隣の市との合併を進めるかどうかが争点となった。慎重な対応を訴えた対立候補を破り、わずか15票差を制し、推進派の岡村譲町長が誕生した。
当時の役場の職員は、「このままでやっていけるのかという思いがあり、合併を進めることはやむを得なかった」と振り返る。

とはいえ、いったいどこと合併するのか。

町長選の翌年には、住民の意向を尋ねる調査を実施。その結果、隣接する小千谷市(当時人口4万300)と、長岡市(当時人口28万2200)とが合併先の候補となった。長岡市との合併は、小千谷市をはさんで飛び地となるものの、県内第2都市の財政規模は魅力的だった。しかも、小千谷市の方は、やはり中越地震で地場産業の養鯉業が大きな被害を受けるなどしていて、合併を受け入れてくれるかどうかが未知数だった。
利便性の小千谷市か、規模の大きな長岡市か。
地震から3年後の平成19年2月に行われた住民投票は、2つの選択肢を住民に問うものだった。
投票率は77.01%。長岡市が2041票で、小千谷市が1349票。投票した住民の6割が長岡市を選択した。
ただ、「縁談」はすんなり進んだわけではない。
岡村町長は、長岡市との力関係を如実に物語る言葉を残している。
「これからは長岡市民の理解を得られるよう努力したい。川口町はお願いする立場だから合併の時期は相手の意向に従いたい」

この背景には、受け入れ先となる長岡市がもろ手をあげて歓迎したわけではなかったことがある。飛び地との合併になることや、財政に与える影響を考慮して、慎重に判断する姿勢を示していた。
しかも、長岡市は、すでに川口町と同様に甚大な被害を受けた山古志村を、地震の前からの約束で合併したばかりだった。

実は、財政が悪化した川口町を合併しても、さらに「お荷物」を抱えるようなものだ、という声は周辺の自治体から漏れ聞こえていた。そして長岡市は、川口町からの合併協議の申し入れさえ、当初は断った。

結局、合併が実現したのは、住民投票の3年後だった。

合併は正解だったのか

長岡市との合併により、復興に向けた基盤が強化された旧川口町。
過疎対策として公共交通機関がない地区で、コミュニティバスを維持するため運営するNPOへの補助金が創設されたほか、上水道の料金が引き下げられるなど、住民サービスが充実した。

一方で、「合併はしたものの、自分たちの要望が長岡市に届きにくくなっている」ともどかしさを訴える声も出ている。

現在、旧川口町を地盤とする長岡市議は1人もいない。

8年前の市議選では1人を送り込むことができたが、前回4年前の選挙から、議会改革の一環として38人の定員が34人となった。当選ラインが上がったこともあり、候補者を出すことすらできなかった。来月4月の選挙でも候補者を出せる見通しは立っていない。
中越地震で大きな被害が出た旧川口町については、長岡市も地域振興に配慮を示しているという。だが、小千谷市を経由して長岡市中心部にある市役所の本庁までは20キロ。地元の利益を代弁する市議もいない中で、自分たちの地域が取り残されるのではないかという不安がある。

旧川口町で酒店を営む男性は、「少し専門的な話になると、支所では話がつかず、長岡市の本庁に行って話してくれと言われることがある」と不満を漏らす。

いま、喫緊の課題が、新たな避難場所の整備だ。

この町の人たちには、ある記憶がある。

中越地震の当時、実は町の地域防災計画には、「地震」の項目さえなかったのだ。それほど、町にとっても住民にとっても、予想していない災害だった。そんな中で、多くの住民が一時的に避難したのが、以前の川口町役場、今の市役所の支所がある駐車場だ。
そこがいまも、そのまま住民の避難場所として指定されている。だが、もともと土地が低く、おととしの7月の大雨では水に浸かってしまった。

このため、住民は、高台に場所を変えて指定するよう、地域の優先事項として要望を繰り返している。その中心になっているのが、地域住民の代表による「地域委員会」という組織。合併のあと、地域の声をとりまとめるため、自治会の幹部やNPOの代表など12人で作られ、市役所の本庁や支所の担当者に要望を伝える役割を担っている。
委員長を務める、地元の商工会の会長で建築会社を営む小宮山正久さんは、「長岡市中心部とは距離も遠いし、地域の意図をすべて市に伝えることは難しい。市議会議員がいれば川口地域の意見をまとめ、もっと速く市に伝えられるのだが」と話す。議員の空白を地域委員会が埋めている形だ。
「川口単独では難しい、心細いという思いはあった。大きいところと合併したほうが、安心感も安定感もあるのではと感じ、長岡との合併に投票した」と先に登場した農家の星野秀雄さんは話す。
だが、財政規模の大きな長岡市に小さな町が飲み込まれようとしているという見方もある。「合併によって住民の結束が薄くなっている。合併しない方が良かった」という声も聞かれる。

角栄の地で…

かつて、この地域は、田中角栄元総理大臣が強固な地盤を誇っていた。
住民の中には、政治が生活を変えてくれるという意識がまだ残っている。
地震で自立を断念した町が、飛び地でも、と選んだ合併。全国でも珍しいその選択の行方は、どうなるのか。

全国で最も合併進んだ長崎県

一方、半世紀ほど前から人口減少が続く長崎県。その危機感からか「平成の大合併」を経て、自治体の数は79から21へと大幅に減った。自治体の減少率は73.4%と、全国の都道府県で最も高い。

だが、合併はしない

そんな長崎県で、合併を選ばなかった町がある。
小値賀町(おぢかちょう)だ。
佐世保市から高速船で1時間半ほど離れた離島・小値賀島(おぢかじま)などからなるまち。
ここに平成12年、佐世保市との合併の話が持ち上がった。小値賀町議会は「岐路に立つ小値賀を考える特別委員会」を設置。町議会議員は、職員などとも協力しながら、合併した場合と合併しなかった場合の2つのケースを想定し、それぞれのメリット・デメリットの洗い出しを行った。

「合併は財政の問題ではなく、地域の自治権の問題だった。合併を進める国の方針は理解できたが、離島という特殊性を考えて議論をしなければいけないと思った」
当時、特別委員会の委員長を務めた立石隆教議長は、かつての議論をこう振り返る。

9か月にわたる議論の末、特別委員会が導き出したのは「合併すべきではない」という結論だった。
特別委員会の最終報告では、「財政がかなり厳しい状況になることは覚悟しなければならない」とする一方、「歳出の抜本的な見直しにより自立していくことも十分に可能」とした。また民間の力を活かすことに加え、小値賀町役場が直接事業に乗り出すという選択肢も示し、「株式会社小値賀町」という概念を打ち出した。

合併の是非が島を二分する論議へと発展していく中でも、町議会議員は特別委員会の報告内容を模造紙にまとめ、住民への説明会を繰り返した。
町民の1人は、当時をこう振り返る。
「合併しなかったら地方交付税が減らされる、補助金が打ち切られる、そんな噂話をよく聞いた」

そして平成16年に住民投票が行われた結果、54票の僅差で「合併しない」という道を選択することが決まった。
「合併してもしなくても、人口減少は続くという厳しい予測だった。自分たちで打開策を考えられる余地を残しておきたかった」
立石議長の言葉に、議論を尽くした自負が感じられる。

実はこのころ、佐世保市と合併協議を進めていたのは、小値賀町だけではなかった。隣の離島、宇久町を含めた3者で協議会を作っていた。
そして、小値賀町と人口規模がほぼ同じ宇久町は、佐世保市との合併を決めた。

自力で経済活性化

佐世保市と合併しないことを決めたあと、小値賀島内で生まれた取り組みの1つが「おぢかアイランドツーリズム」。
大規模な宿泊施設がないことを逆手に取り、いまでは広く知られるようになった「民泊」を10年以上前に始めた。
宿泊客には農業や漁業といった島の暮らしを体験してもらい、島の“ありのまま”を観光資源に変えていった。
手探りの試みが少しずつ実り、平成24年度には、総務省の「地域づくり総務大臣表彰」で大賞に輝く。島には、毎年、人口のおよそ20倍にあたる4万人以上が訪れ、10人から20人の移住者が新たにやって来るようになった。合併時には3200人台とほぼ同じ人口規模だった小値賀町と旧宇久町。どちらも人口減少は続いているものの、旧宇久町の人口が2000人を割り込んだのに対し、小値賀町は2400人余りと、合併への対応が異なった2つの島の間に差がつき始めている。
「人口減少は止まらない。人口が減っていく前提で、暮らしをどう維持していくかを考えなくてはいけない時期に来ている」と立石議長は話す。

どう引き継ぐか

合併の先にある島の行く末を案じ、議論を重ねた小値賀町議会。いま課題に感じているのは、島の将来を担う若い世代の政治参加だ。町議会は、前回4年前の町議会議員選挙に合わせ、50歳以下の議員報酬を通常の月額18万円から30万円に引き上げる条例を制定した。全国的に珍しい取り組みとして注目を浴びたものの、結局、若い世代からの立候補は実現しなかった。「金目当てだと思われたくない」として、かえって若手を遠ざけたという見方もある。
そして今年4月、再び町議会議員選挙を迎える。立石議長は、島の若い世代に声をかけているものの、「いまのところ色よい返事はない」という。合併せずに守ってきた“自治”をどのように若い世代に引き継いでいくか、きょうも模索は続いている。