おわらない えんそく

おわらない えんそく
ともだちといっしょに、えんそくのように とおくのむらにいきました。

みんなといっしょで とてもたのしかったです。

でも きがつくと ぼくをむかえにくるひとは、いませんでした。

ぼくはえんそくのあいだに、ひとりぼっちに なってしまいました。

えんそくは ひとりぼっちになっても なおつづきました。

えんそくはもう、やめにしなければと おもっています。
(ネットワーク報道部記者 飯田耕太)

たのしい えんそく

「遠足のようでしたよ。みんないっしょにお寺で勉強して寝泊まりして、朝はマラソンしたり、午後は地元の子たちと一緒に川で遊んだりしてね」

男性は“えんそく”の思い出をそう話し出しました。

「楽しい思い出がそれこそもういっぱいです」

でも楽しかったのは初めのころだけでした。

「だんだん長引いてきてね、『家に帰りたい』と泣く子が出るようになったんです」

つらい えんそく

男性は東京に住む小口光邦さん、84歳です。“えんそく”に出たのは昭和19年8月、小学4年生の時です。

当時は国どうしが戦っていて、大都市の空襲に備え、子どもたちを集団で地方に避難させるようになったのです。

クラスの友達と一緒にみんなで移動しますが、もちろん親睦を深めるための遠足ではなく、命を守るための“えんそく”で、集団疎開と呼ばれました。
小口さんの小学校でも500人ほどの子どもが疎開しました。向かった先は千葉県南部の村でした。お寺で30人ほどの仲間と一緒に暮らし始めます。

ところが、“えんそく”が始まって半年後、昭和20年2月の朝、「バリバリバリ!」というすごい音が聞こえました。

同時に銃弾が天井を貫いて食卓に降ってきました。壁や床に穴が空き、本堂のほうから火の手が上がりました。

「早く逃げろ!」

そうした声が聞こえて、表に出ました。上空を2機の爆撃機が舞っています。

外に出ると雪の田んぼ道で、そこをみんなではだしで駆け抜け、土手の下に掘った野菜室に逃げ込みました。

しばらくして外に出ると かやぶき屋根の寺は形もありませんでした。

3月10日と真っ赤な空

この頃をさかいに、“えんそく”はつらいものになっていきます。住むところを失ったので、2人1組になって近くの農家に世話になることになりました。

それから10日余りたった3月9日の夜、不気味な光景を目にしました。

「雑木林の向こう側、自分の住んでいた東京の方角の空が真っ赤に染まっているのが見えたんです」(小口さん)
世に言う東京大空襲です。翌日10日未明にかけて、長さ50センチほどの焼夷弾(しょういだん)が32万発、無差別に落とされました。降り注ぐ焼夷弾の中を人々がただ、逃げ回っていました。

「みんなが心配していたのは家族です。真っ赤な空の下に家族がいたんです」(小口さん)

家族の安否はしばらくわからず、小口さんは空襲から数十日たって、下のお姉さんが逃げ切れて親戚のところにいることがわかりました。大好きだったお父さん、お母さん、お兄さん、上のお姉さんのことを教えてくれる人はいませんでした。小口さんは、お父さんたちは生きていると考えることにしました。
1か月ほどがたち、小口さんは大人にないしょで、いとこと一緒に東京に行くことにしました。錦糸町駅に降りて歩いて自宅に向かうと、一面焼け野原で焼け焦げて横たわる遺体もありました。自宅のあったところに行ったけれどやはり焼け野原でした。

「みんなきっと無事でどこかに避難しているんだ」

今度も、そう思って過ごすことにしました。

ひとりの えんそく

それから4か月後、理不尽な戦争は終わります。家族がいる子は、引き取られていきました。小口さんに帰る場所はありませんでした。

“えんそく”はひとりだけとなりました。

千葉や東北の親戚の家を転々としました。学校も入学や転校を繰り返しました。畑仕事を手伝って学校に行けない日もありました。食べ物もない時代、人を養うのは大変で「何でお前なんかが生き残ったんだ」と言われた時は、心が折れました。

そう言われたのは雪の降る日の夜で、外に飛び出し、麦畑の真ん中で泣きました。

「もう死んでもいいや」

そう思ってまぶたを閉じました。

朝、目を覚ますと意識があり、生きていました。体に降り積もった雪を手で払いのけて、「ひとりで生きていこう」と誓いました。

えんそくに来ていた友達

小口さんは18歳で東京に出ました。家がないから住み込みで働き出します。
そうした中、昭和30年ごろから“えんそく”に来ていた子どもたちが顔を会わせるようになります。その中に谷村公司さんがいました。

谷村さんも空が赤く染まったあの一晩で、お父さんとお母さん、それに4人の兄の6人を亡くしています。

2人で話すうちに英子ちゃんという疎開先にいた地元の女の子の話になりました。英子ちゃんは銃弾が降り注いだ日に、かぜで家に寝ていて、そこに銃弾が当たって亡くなりました。

「疎開先や、空襲で亡くなった英子ちゃんのことばかり話していましたね」

“えんそく”先で出会った、たぶん初恋の人でした。
20年ほど前、谷村さんは疎開先をバスでめぐるツアーを企画します。半年がかりで準備を進めていましたが、直前に体調を崩し、入院してしまいました。肝臓がんでした。ツアーの当日、「どうしても行きたい」と家族に付き添われて東京駅のバス乗り場に車いすで谷村さんが来ました。

バスに乗り込もうとしましたが、車いすから立ち上がれませんでした。やむなく参加を諦めました。谷村さんはその半月後、63歳で亡くなりました。
「戦争孤児になった彼には身内がいない分、大変な時をともに過ごした私たちを身内と思っていたんだと思います。つらい経験も含めて人生のかけがえのない時間だったんだと思います」(小口さん)

えんそくは いつまでも

“えんそく”の仲間の集まりは今も続き、たびたび疎開先を訪ねています。
そして、ことしも、東京大空襲の日、3月10日に再会します。

不思議なことに、空襲で家族はどうなったのか、疎開の後、どんな暮らしをしてきたのか、語り合うことはほとんどないそうです。

「戦争の話だけは避けるっていうのかな。してはいけないみたいな雰囲気がずっとあります」

「戦争の中でみんな、語るに語れないつらい経験を抱えていて、せめて会うときは楽しかったころの遠足の気分が続いてほしいような感じなんです」

“えんそく”はもう二度と

小口さんはおととしから、一枚の紙に自分の歴史を、書き留めるようになりました。その紙は、5メートルほどの長さにもなり、84年の人生で、結婚したり、子どももできたりしたけれど、大部分は、友達との“えんそく”と、1人になった“えんそく”の日々が記されていました。

それは色濃く、はっきりとした字で書かれ、こうした“えんそく”は二度と繰り返してはいけないと語りかけているように感じました。

(文中の切り絵は谷村公司さんの作品です)