知られざる“空からの救助”

知られざる“空からの救助”
「救助の需要に対して供給が圧倒的に足りない、今できることをやろう、ということだった」。8年前のあの日、空からの救助にあたった隊員たちが、初めて取材に答えました。東日本大震災の発生直後、陸上自衛隊の航空隊が所属する霞目駐屯地は、仙台空港などが津波の浸水で使えなくなる中、宮城県内で唯一の発着地になりました。警察、消防のヘリも受け入れ、浸水地域における救助の最前線になったのです。隊員たちの証言であの日の空からの救助の全容が分かってきました。(仙台放送局記者 中島俊樹)

8年経て語り始めた隊員たち

「3月11日は、黙りたくなる日でしたね」。そう振り返るのは、当時、霞目駐屯地で救助ヘリの機長を務めた馬場正幸さん(53)です。

あまりに衝撃的な現場だったために、これまで人に語ることを控えてきました。しかし定年の時期が近くなるにつれ、後輩たちに教訓を伝えなければならないと考えるようになり、今回初めて取材に応じました。

馬場さんは一つ一つことばを選びながら、慎重に記憶をたどってくれました。
「初めて離陸してすぐに、仙台の市街地で車が渋滞しているのが見えました。そして海の方を向いたときにはあぜんとしましたね。海岸線から3、4キロ内陸にあるはずの仙台東部道路まで波が来ていて、海岸線がなぜこんなに近いのかと錯覚を覚えました」

夜の救助 可能にした特殊装備「NVG」

馬場さんが取材に答えてくれたことをきっかけに、私は自衛隊をはじめ警察、消防、海保などヘリを持つ機関を取材し、地震発生から24時間のヘリの発着時間や活動場所などを調べました。

すると、ある事実が分かってきました。3月11日から翌12日にかけての夜間、警察や消防が救助を中断するなか、自衛隊だけが救助活動を続けていたのです。
当時行われたのは「ホイスト救助」。地上に降ろしたワイヤーに被災者をくくりつけ、ヘリまでつり上げて安全な場所へ運ぶものです。しかしこの救助、夜間は電線やがれきなどが見えないため、二次災害のおそれが高まります。

なぜ自衛隊だけ可能だったのか。その秘密は、自衛隊ならではの特殊な装備品にありました。
ナイトビジョンゴーグル(NVG)を装着して操縦していたのです。NVGとは自衛隊が防衛作戦に使う装備で、真っ暗闇でもわずかな光りを感知してはっきりと見ることができます。実際に私も市販のNVGを入手し、のぞいてみました。すると、真夜中でも地上40メートルから人の姿を確認することができました。

馬場さんはNVGを着けて、必死に助けを求める人を探したと言います。

「屋根の上にのぼって両手を振る人や、住宅の2階から懐中電灯を照らして合図を送る人が見えました」
NVGを着けてヘリを操縦するには自衛隊の中でも一定の訓練や資格が必要ですが、馬場さんたちは偶然にも、震災の半年前から集中的に訓練していました。このため当時は6人の有資格者がいて、1機当たり2人、合わせて3機を飛ばすことができました。この3機で夜を徹して浸水した地域と駐屯地を往復し、120人以上を救助することができました。

駐屯地での戦い

駐屯地の中でも、かつてない事態が起きていました。深夜、ほかの地域からの応援ヘリが続々と集まってきましたが、着陸の場所を知らせる灯台が、地震の揺れで壊れていたのです。
管制塔でフライトや着陸の指示を送っていた掛田慎太郎さん(42)は、緊急時に使う信号灯を手に持ち、ヘリをねらって照らし続けました。駐屯地は事故を起こさずに乗り切りました。

「不測の事態が起こった場合にどう対処するかを常に考えておくことが、非常に重要だと感じました」

「さっきまで生きていた」隊員の苦悩

夜間の救助で訓練の成果を発揮した一方で、救助ヘリの機長だった馬場さんは、助けを求める人すべてを救うことはできなかったと振り返ります。

加えて、震災当日の活動は仙台市周辺に限られていました。深刻な被害を受けた宮城県北部にある石巻市の周辺では、近くの松島基地が被災したうえ、悪天候も重なり向かうことができていませんでした。

馬場さんたちは翌朝5時すぎのフライトでようやく石巻方面にたどり着きましたが、そこで目の当たりにしたのは、厳しい現実でした。
当時の被災地は、雪が降るほどの寒さでした。津波からはなんとか助かっても、その日の夜に救助の手が届かず、低体温症で亡くなった方が多数いたとみられています。

ヘリの乗組員だった荒牧孝さん(45)も、あの日の教訓を伝えようと、つらい記憶を語ってくれました。荒牧さんは石巻市の被災地でヘリから地上に降り立ち、ワイヤーで被災者をつり上げる役割でした。その時、被災者からかけられたことばを今も忘れることができないと言います。
「『さっきまで生きていたけど連れて行ってくれないか』という依頼がありました。ご遺体を少しでも暖かいところに連れて行ってあげたいという気持ちになりましたが、生存者を優先しなければいけません。このため『すみません』と言って断るやり取りが何件もありました。もう少し早く来ていれば助けられたかもしれないと思いましたし、私たちも全力で頑張っていましたし、その葛藤が…。正直なところ、今でも気持ちの整理がついたかどうか分かりません」

1人でも多くの命を救うために

こうした教訓を生かして陸上自衛隊霞目駐屯地では震災の後、対策が進められました。発生から2日目以降に多く集まった応援のヘリに対応するため、着陸場所を3割拡大したほか、滑走路に電灯を配備して深夜の受け入れ態勢も強化しました。また救助活動のエリアも広げていて、石巻市で搬送先の病院などと連携した訓練を重ねています。
パイロット歴30年の馬場さんは、あの日の記憶とともに、毎日の訓練の重みを後輩たちに語り継いでいきたいと言います。

「訓練をやってきたことは間違いではなかったと確信できました。日頃の訓練や使命感が大事なんだと、伝えていかなくてはなりません」

夜を徹した懸命の救助活動をしながらも、助けられなかった命があったことも真摯(しんし)に受け止める馬場さんたちのことばからは、「『仕方なかった』で終わらせてはいけない」という強い思いを感じました。

災害はいつ、どこで起きるか分かりません。次に起きる災害で1人でも多くの命が救われるように、わたしも8年前のあの日の記憶を取材し、教訓を伝え続けたいと思います。
仙台放送局記者
中島俊樹

福島の地元紙記者をへて平成21年に入局。東日本大震災の発生当初から被災地取材を続ける。