世界でただ1頭のバク 「クニオ」

世界でただ1頭のバク 「クニオ」
広島市の動物園で元気に走り回るマレーバク「クニオ」。2歳4か月のオスで、人間で言えば大人になる一歩手前の青年ですが、実は、呼吸するのに大切な横隔膜が生まれつきないと見られています。そもそも絶滅危惧種に指定されているマレーバクの中でも、こんな状況で生きているのは世界でクニオただ1頭だけ。命の不思議な力と見守る人たちの思いです。(広島放送局記者 秦康恵)

横隔膜がないクニオ

白と黒のツートンカラーのシックな体色と、どこかモチモチとした体型が特徴のマレーバク。生息地の東南アジアでは、森林開発などが原因で数が減り生息数は2500頭ほど、日本の動物園でも30頭余りしかいません。
その中でも唯一の存在と言われているのが、広島市の安佐動物公園のクニオ。
2016年の9月20日に生まれたことがその名の由来ですが、哺乳類に必ずある横隔膜がないと見られています。

さらに、心臓を包んでいるはずの膜もなくむき出しになっています。こんな状況と闘いながら生きているのはクニオ以外にはいないと考えられることから「世界でただ1頭のバク」なのです。

X線写真の衝撃

クニオは、安佐動物公園で飼育されていた「ピース」と「ミム」の間に生まれた5頭目の子どもです。
その異変は、生まれてまもなく明らかになりました。
ヒト以外の動物は、口で呼吸をすることは通常ありませんが、クニオは口を開けて呼吸をしていたのです。
「これまでの子には見られない呼吸の荒さで、常に口を開けてハアハアと言っている感じでした」(飼育担当者)
当初は肺炎を疑って薬を投与しましたが状態は改善せず、内部をX線で撮影しました。その画像を見た獣医師の野田亜矢子さんは衝撃を受けました。

胸に消化管!?

左側が首、そこから弧を描いているのが背骨ですが、野田さんが目を奪われたのは、赤い矢印で示した胸のあたり。本来ならおなかにある消化管の一部とみられる臓器があったのです。

さらに背骨の下に黒く細長く映っているのは肺。消化管がクニオの肺を圧迫していました。

手術しか道はない

野田さんは、「クニオの横隔膜には穴が開いていて、おなか側の臓器が胸側に入り込んでいる」と考えました。

横隔膜とは、腹にある臓器と胸にある臓器を仕切っている筋肉です。さらに横隔膜が伸び縮みすることで肺が空気を取り込んだり押し出したりして呼吸を行うことができます。
つまり横隔膜がないということは、呼吸が難しいことに加え、本来腹にある臓器が胸に入り込んで肺や心臓を圧迫することを意味しているのです。
「横隔膜の穴が小さければ、ほかの筋肉を移植して塞ぐことができるかもしれない。それしかクニオの生きる道はない」
動物園は、手術を行うことを決めました。

何もせずにおなかを閉じた

ところが、手術が始まってまもなく獣医師の野田さんはわが目を疑いました。穴が開いているどころか横隔膜そのものが見当たらないのです。
さらに心臓を包んでいる「心のう膜」もなく、むき出しになって拍動している心臓に、肝臓が接していました。
「われわれの予想としては、腸管とかが穴から胸側に入っている状態だろうから、それをひっぱり出してなんとか穴を閉じようと考えていました。でも、心臓があってすぐ隣に何の壁も無くいきなり肝臓ってあり得ないことなので、現実かなと思いました」(野田さん)
クニオの場合、呼吸が苦しいだけでなく餌を食べて動いた腸が心臓に当たり、突然、止まってしまうことも考えられる状況でした。
想定していた治療はできず、いったん開いたおなかをそのまま閉じるしかありませんでした。
「処置ができなかったということは、クニオの場合、横隔膜がない状態で生きていかなければいけないことを意味しているので、かわいそうだけれど、せっかく生まれてきてくれたけれど、この先、何日、何か月生きられるのかというような感じで閉じたんです」(野田さん)

心配をよそに順調に成長

このあと、動物園のスタッフたちはクニオをより一層注意深く観察するようになりました。
飼育担当の坪田麻実子さんは、呼吸が苦しそうじゃないか、餌の食べ残しやふんの状態はどうか、見守り続けました。
心配をよそにクニオの呼吸は安定し、ほかのバクより少し遅いものの順調に成長。ぷかぷか浮いては顔を出す水遊びすら楽しむようになりました。

それでも少し体調を崩すと坪田さんは心配になりました。
去年5月のこと。ふんの色がいつもと違って赤くなりました。好物のリンゴ以外のものを食べなくなり、床に横たわったまま、おなかが痛そうにしていました。

「クニオがこのまま弱っていったらどうしよう」と思ったという坪田さん。

何か悪いものを食べた可能性を考え餌に下剤を混ぜて腸内にあるものを出したところクニオの調子は上向き、食欲が戻ってきました。
整腸薬も投与した結果、クニオはすっかり元気になりました。

えっ!生きてるの?

クニオは、専門家の間でも理解を超えた存在です。
おととしの秋、日本野生動物医学会でクニオの症例が報告されました。

後日、この学会に参加した獣医師が安佐動物公園を訪れ飼育舎に案内したところ、クニオを目の当たりにして「えっ!生きてるの?」と驚いたそうです。
獣医師はクニオがすでに死んでいると思い込んでいたのです。

“クニオ推し”の人たち

奇跡のバク「クニオ」を応援しているのは、飼育に携わっている人だけではありません。

去年1年間に日本各地にある22の動物園や水族館を合わせて80回以上訪れ、その時の様子をツイートしている静岡県に住む30代の男性・HMさんもその1人。
その多くが各地のバクの写真で占められるほどの「バク推し」です。そもそもマレーバクの魅力についてHMさんは、「少し間の抜けたかわいらしい顔つきや、ひょうきんな表情を見せるところなどあげだしたらきりがない、ユーモアの塊です」と語ります。

クニオについては、2年前の秋に安佐動物公園を訪れた時に出会い、母親のミムと仲むつまじい姿にひかれ、さらにその後、ミムが死んで残されたクニオを応援する気持ちが強くなったと言います。
「病気のことは動物園の掲示板で知りましたが、それを感じさせない元気な姿に驚きました。クニオの生命力の強さとそれを支えるスタッフのケアのたまものだと思い感服するばかりです」

もうすぐ大人に

クニオは、1月20日で2歳4か月になりました。マレーバクは2歳半から3歳で大人になるので、その一歩手前の青年です。

毎日、りんご、バナナ、にんじん、食パン、干し草など3キロと、クロキやアラカシなどの木の葉を3キロ食べています。体重も200キロを超え順調に成長しています。

絶滅のおそれがあるほど減ってしまったマレーバク。その中でもただ1頭、困難な状況を生きるクニオを見守る人たちの思いは皆、同じです。
「ここまで元気でいてくれてありがとう。ほんとによかったなと思います」(飼育担当 坪田さん)

「元気に成長する姿をずっと見ていけたらなと思う」(動物園を訪れた小学生)

「住まいが静岡県なので頻繁に通えませんが、たくましく成長した姿に再び会えることを楽しみにしています」(HMさん)

「クニオには生物の潜在的な生きる力を感じます。あの状況でどこまで頑張れるか、それがあすなのか10年先なのか分からないですが、苦しいことがないように、しんどくなく頑張って生きてほしいなと思います」(獣医師 野田さん)
広島放送局記者
秦康恵