九州大学 ある“研究者”の死を追って

九州大学 ある“研究者”の死を追って
去年9月7日の早朝。福岡市の九州大学で火災が発生した。現場は、大学院生が使う研究棟。所狭しと研究室が並ぶ「院生長屋」と呼ばれる場所だった。キャンパスの移転で、取り壊しが始まるやさきに事件は起きた。焼け跡から遺体で見つかったのが、K、46歳。九州大学の博士課程まで進み、9年前に退学した男で、誰もいなくなった研究室に放火し、自殺したと見られている。九州大学は、Kが利用資格を失った後も、無断で研究室を使っていたと説明した。

ともすれば、この事件は注目を浴びることもなく、忘れ去られていたかもしれない。しかし事件後、その死をめぐり思わぬ波紋が広がった。ネット上に、「あすはわが身」など、Kにみずからの境遇を重ね合わせる研究者たちの悲痛な叫びがあふれたのだ。Kの死が投げかけたものはなんだったのか。私たちはその人生をたどることにした。(報道局社会番組部ディレクター 森田徹/福岡放送局ディレクター 水嶋大悟、水野景太)

死の直前にとっていた意外な行動

取材を始めると、Kが事件の前に意外な行動をとっていたことがわかった。事件当日、長年通っていた福岡市内の整骨院に、Kからあるものが届いた。
10日ほど前のKの誕生日にプレゼントした靴だった。
「いつも頂き物をしていたので、何かお返しするチャンスがないかと思って。渡したときは、喜ばれてたんですけど」(整骨院 森美紀さん)
Kの靴がボロボロになっているのを見て、選んだ本革の靴。そこには、一通の手紙が添えられていた。
「高価で使えないものをいただくのも申し訳ないのでお返しします」「どなたかお使いください。申し訳ありません」

苦学の末に入った学問の道

事件の直前に、気遣いを見せていたK。いったい、どんな人生を歩んできたのか、小学校時代の親友、後藤和也さんに話を聞くことができた。
「決してガリ勉というわけではなくて、勉強もできるし、ほかの人にも優しい、スポーツもできる、本当によくできた男だった」
Kは1972年、染物会社を経営する家の長男として京都に生まれた。クラス一の秀才で、友達思いの少年だったという。

高校時代、久しぶりに会ったとき、後藤さんはKから迷彩柄のリュックをプレゼントされた。成績優秀だったにもかかわらず、Kは一般の高校に進学せず、神奈川県にある陸上自衛隊の少年工科学校に入学していた。父親の会社が倒産したため、学びながら給料を得られる道に進んでいたのだ。

その7年後、後藤さんの元に届いた手紙には、Kが21歳で九州大学に合格したことがつづられていた。

Kが描いた夢は

九州大学法学部で学び、その後、大学院に進んだK。いったい、何を目指していたのか。大学院時代の先輩、鈴木博康さんに話を聞いた。Kとは「院生長屋」で共に研究者を目指した仲だった。

Kが大学院で没頭した研究は、憲法だった。「人は法のもとに平等である」という理念に強く引かれていたという。
「この社会で何が問題なのか、なぜ不平等が起こっているのか、それを変えていくためにはどうしたらいいのか。日本の憲法学の何かに貢献できればという大志を抱いていたんでしょうね」
家庭の事情で一般の高校に進学できず、自衛隊でも、いじめなど理不尽な経験をしたと話していたK。憲法や法律の研究を通して、社会に貢献できることはないかと、語っていたという。

時代のうねりの中で味わった挫折

しかし、Kが研究者を目指した1990年代後半、大学院生を取り巻く環境は一変していた。国は国際競争力を高めようと、大学院生を約10万人(91年)から約20万人(2000年)に倍増させた。その一方、教授など正規の研究者のポストは限られていた。

競争が激化する中、Kは研究に専念することができなかった。実家からの援助に頼れなかったため、飲食店などのアルバイトを掛け持ちして、学費や生活費を稼いでいたのだ。

大学院の仲間たちは、正規の研究者になったり、諦めて就職したり、Kのもとから次々と去っていったが、それでもKは研究者を目指し続けた。しかし、博士論文を書き上げられないまま、在籍期限を迎え、37歳で退学した。

Kが足を踏み入れた「非常勤講師」の厳しい世界

Kは退学後、何をしていたのか。取材を進めると、その後も「院生長屋」にとどまり、法律に関わろうとしていたことがわかってきた。
事件の後、焼け跡から見つかったプリント。Kが授業で使うために自分で作ったものだった。Kは大学や専門学校など4校で、非常勤講師として若い学生に法律を教えていたのだ。

非常勤講師は2000年代、大学の人件費削減によって急増し、国の政策で倍増した大学院生の雇用の受け皿にもなっていた。

事件後、ネットに広がった「ひと事ではない」という声。実はその多くが、非常勤講師からのものだった。
その一人、関東地方で非常勤講師を務める男性が取材に応じてくれた。給与は正規の大学教員より大幅に少なく、4つの学校を掛け持ちしても、月収15万円ほど。契約は1年更新で、常に雇い止めの不安を抱えているという。
「綱渡りのような日常ですよね。ほかの人からは、あんたの選んだ道で自己責任だろうと見えるかもしれないけれど…。将来を考えたくない、考えると、生きていくのがつらくなるだけなので」

「非常勤講師」に見いだした“新たな生きがい”

非常勤講師の厳しい現実。それでもなぜ、Kは学問の世界にこだわり続けたのか。

大学院時代の先輩で、その後、教授となった鈴木さんのもとに、Kから授業のプリントが定期的に送られてきていた。
そこには、「マンガ規制」や「アイドルの恋愛禁止は憲法違反か」など、法律になじみのない学生が興味をもてるような話題も盛り込まれていた。そのために、Kは借金してまで最新の本を買うこともあったという。研究者の道が見通せない中、学生たちに法律を学ぶ意義を伝えようと力を注いでいたと鈴木さんは語る。

「ただ単に食っていくだけだったら、そこそこにやればよかったのかもしれないけど、授業するということが、最後の生きがいだったのかもしれませんね」

追い詰められ 最後の生きがいをも失っていく

しかし、その生活も、次第に維持できなくなったことがわかってきた。
ドイツ語が堪能なKに研究の手伝いをしてもらうなど、親交を続けてきた九州大学名誉教授の木佐茂男さん。事件の2年前から、窮状を伝えるメールが届くようになったという。
「非常勤の1つが雇い止めになりました」
「みずからが招いたとはいえ、経済破綻に直面することになりました」
雇い止めに加え、700万円を超える奨学金の返済が重い負担となっていた。Kは、夜間のアルバイトも始めていた。
「不慣れな肉体労働のため、疲れます…」
「非常勤の授業準備が、全くできない」
当時、体に不調をきたしたKが通っていた整骨院。Kがふと漏らしたことばを、今も鮮明に覚えている。
「学力や能力があっても、それ以上先に進もうと思ったときには、すべて経済的な力が必要になるので、能力を生かしきることはなかなか難しい」
次第に追い詰められていったK。
そのころ、Kが長年使ってきた「院生長屋」に、キャンパス移転に伴う取り壊しが迫っていた。無断使用に気付いた大学から、Kは退去を促されていた。

Kの死が投げかけたものとは

事件の2週間前。Kは福岡市内の島を訪れ、京都に暮らす母親やお世話になった人に、名物の干物を送っていた。
事件4日前。Kはなじみのラーメン店を訪れ、一杯の塩ラーメンをかみしめるように味わっていたという。

「今考えると、人生最後の一杯を味わって食べてくれたのかなって。とにかくゆっくり、え!?っていうぐらい、ゆっくり食べられていました」(店主)

事件が起きた9月7日は、研究室の強制退去の日だった。“研究者人生”が詰まったその場所で、炎に包まれたK。遺書は見つかっておらず、その死をめぐっては、いまだにわからないことが少なくない。
整骨院の森美紀さんは、事件後、靴に添えられていた手紙を繰り返し読み、なぜKが壮絶な最期を迎えたのか、考え続けてきた。ふと手紙を透かしてみたとき、あるものに気付いたという。
「私の思い過ごしかもしれないですけど、なんかシミがあったような感じがして。もしかして泣いたのかなって。“自分のことをわかってほしい”。いろんな思いがあふれ出た、そんな涙…」
報道局社会番組部ディレクター
森田徹
平成23年入局。盛岡局をへて現在、ニュースウォッチ9を担当
福岡放送局ディレクター
水嶋大悟
平成20年入局。松山局、報道局社会番組部、スポーツ番組部をへて、
現在、九州地方の報道番組などを担当
福岡放送局ディレクター
水野景太
平成27年入局。現在、九州地方の報道番組などを担当