直筆メモが語る水木しげるの原点

直筆メモが語る水木しげるの原点
3年ほど前、93歳で亡くなった漫画家の水木しげるさん。「ゲゲゲの鬼太郎」の第6期のアニメが始まるなど今も多くの人たちを魅了し続けていますが、戦争の漫画を数多く残したことでも知られています。今回、水木さんが、自身の戦争体験について、まだ漫画家になる前の昭和20年代に書いた直筆のメモが見つかりました。そこに込められた水木さんの思いとは。ゆかりの人たちを訪ねて取材しました。(社会部記者 山口健)

70年前の直筆メモ

メモは水木さんの仕事場だった書斎の本棚の奥から見つかりました。赤茶色に変色した古びたノートに、万年筆でつづった文字がびっしりと書き込まれています。ノートの表紙には昭和25年1月とあり、水木さんがまだ漫画家になる前、27歳の時に書いたことがうかがえます。

あの作品の「原点」

冒頭に記されたことばは「セント・ジョージ岬」。戦時中、水木さんが送り出された南太平洋の激戦地・パプアニューギニアにある地名でした。
水木さんは昭和18年、21歳の時に召集。まもなくパプアニューギニア・ニューブリテン島のラバウルに派遣され、玉砕攻撃などによって多くの仲間を失いました。今回見つかったメモは、その戦争体験をもとに描かれた珠玉の力作「総員玉砕せよ!」につながる記録だったのです。

隣り合わせの死

メモを読み進めると、まず、ラバウルに降り立った時の情景が記されていました。
「みどりの空、みどりの海、みどりの原始林。昼は爆音、夜は巨木ささやく夢幻境。ラバウルの最前線に捨てられるべく置かれし一個の生きもののさまよえるいのち! 万物よ走れ! 生きよ! ただ生きるべし」
目にもまぶしい南洋の美しい自然の中で、常に生死が交錯していた混沌が表現されてました。そして、水木さんが目撃し体験した戦場の様子が時系列に沿って書かれていました。日本軍の拠点となっていたラバウルから離れて、200人余りの部隊でズンゲンという場所に前方展開することになった水木さん。死を強く意識し始めます。
「友軍と五十里も離れた人跡未踏の原始林へ急ぐ。それは玉砕の定位置以外ではない。全滅は時間の問題である。ク、ク、ク、と(輸送艇の)大発の音だけがきこえる。遺書もラバウルに置いて来たし、この音と共に生命は消されて行く」

「『爆音!』船舶工兵の声。ハッとして、脳ミソを耳に集中さす。不気味な低音。黒いジャングルの岸づたいを七、八時間も行く。山のような巨木ある場所、そこが我ら二百五十名のしばしの生命の置き所である」
ズンゲンに到着した水木さんを待っていたのは過酷な陣地構築でしたが、生への思いがますます強まります。
「考える程の暇はない正に超重労働。エネルギーの配給は頭の方には1%もまわって来ない。ただ、死にたくない、生きたい これのみ」

独特のセンス

メモは、時折、哲学的な異色の表現が盛り込まれているのも特徴です。10代後半からドイツの文豪・ゲーテの著書などを乱読していたという水木さん。哲学と独特のユーモアが融合した表現からは、のちに漫画家として大成する実力が、すでにこの頃から垣間見られます。
「いぶし銀のような川面を音もなく船は行く星たちはさんさんと輝いていた。月は不可思議なように空につり下げられていた。川底のワニも寝たのだろう。音よ、どこへ行ったのだと言いたいほど、音のない世界」

「遠い遠い妖怪の栄えた時代から生えていた絶崖のような巨木が荘厳な高さで厳然と並んでいた」

「植物的自然、人工は不健全なもの従って病的思想を生む。空腹の意味が最高で、空腹でなけねばどんな山海の珍味も前者の快感に及ばざる如く」

「敗戦はみな骨で肯定し、皮膚で否定していたにすぎぬ」

いよいよ、その時が…

ズンゲンに来て半年ほどたった頃、水木さんはバイエンという「最前線中の最前線」に10人余りの分遣隊で移動することを命じられます。敵と真っ先に対じする可能性が高く、バイエンに行くことは死から逃れられないことを意味しました。
「『非常呼集』いよいよ来るべきものが来たかとはせつける。『今から名前を呼ぶ十名のものは明日バイエンに向け出発のこと』曹長の歯と歯との間から、我が名が発音された。死の地点、謎のバイエン」

「頭はボーッとしていても体は知っていた。十名共、死を」

「『では元気で行ってこいよ』『どうも色々有難う』これから死の地点二十里までを我々は歩くであろう。即ち歩く間生きるであろう」
バイエンに到着後まもなく、部隊は敵に急襲されて、水木さん1人を除いて全滅します。しかし、メモは現地に向かうまでのこの記述を最後に、ノートが切り取られるようにして終わっていました。

60年の漫画家時代をも圧倒

この体験をもとにした作品「総員玉砕せよ!」は、メモが書かれた23年後の昭和48年に出版されました。メモには作品の要となるバイエン以降の出来事が入っていませんでしたが、水木さんは晩年までこのメモを大切に手元に保管していました。
水木さんの長女の原口尚子さんは、「水木は家族に過酷だった戦場の話をほとんどすることがなく、私も作品を通してしか知ることができなかった。こうやって書き残してくれたことで、つらかった胸の内が想像できました。亡くなって3年がたちますが、水木の手書きの文字から体温を感じる思いです。水木の中では、漫画家として活躍した60年の歳月よりも、戦争を体験した2年余りの時間のほうが圧倒していたのだと思います」と話していました。

水木さんの“原点”

メモにはどのような思いが込められていたのか? 水木さんと長年親交があり、戦後、ラバウルにも同行したことがあるノンフィクション作家の足立倫行さんを訪ねました。
メモを熟読した足立さんは、漫画家・水木しげるのいわば「原石」と言えるむき出しの感情が詰まっていると指摘しました。
「戦争を書こうと思った始まりだと思う。本人にとってはかけがえのない、おそらく最初にまとめたもの。水木さんが27才のこの時はまだ、そこまでまとまらない訳ですね、自分を客観視できない。恐怖や不安がそのまま出ています。そうかと思うと、哲学的なことばが出てきて、整理はされていないんだけど、水木さんが20代のころ『俺の戦争は』と思った時に書いたそのままのごつごつした感情の岩みたいなところがここに表れている。そういう意味では、けうな表現者の歴史的な遺産の1つだと思います」
そして、足立さんは、戦争の現実を伝えるという水木さんの執念とも言える決意がメモから感じ取れると話しました。
「何度も死にそうになり、片腕を無くすという取り返しのつかないことがあり、忘れようにも忘れられない戦争。『あれは何だったんだろう』と、自分が五体満足でなくなったあの暴力的な戦争の意味、実相は何なのかという思いを水木さんはずっと抱え続けていたと思います。この原石を磨きに磨いて、体験を再構築したのが『総員玉砕せよ!』。内部から見た当時の日本軍の特殊性を描きながら、軍隊という組織の普遍性に迫る作品に仕上げることができた。水木作品の中では、おそらく100年、200年と続くのは、この作品じゃないかと私は思っているんです。水木さんは偉大な妖怪漫画家ですけども、あるいはそれ以上に偉大な戦争漫画家かもしれないですね」

「水木しげる」の思い

執念とも言える水木さんの戦争への思いを今、どう受け止めればいいのか。この率直な問いを考えるため、かつて水木さんになりきったことのある人を訪ねることにしました。
香川照之さんです。2007年、「総員、玉砕せよ!」をもとに作られたNHKスペシャルのドラマ「鬼太郎が見た玉砕~水木しげるの戦争~」で、水木さんを演じました。

香川さんは、歌舞伎の舞台を控えて多忙を極めていた去年11月某日、時間を割いてインタビューに応じてくれました。メモを差し出すと、香川さんは「水木先生、失礼します」と姿勢を正して一礼しました。そして、「すごく生命力を感じるのはなぜだろうね。いらっしゃる気がするね」と、わずかに笑みを浮かべながら最初の感想を述べました。

香川照之さんが見た“戦場”

メモを読み進めた香川さんは、ドラマの撮影で訪れたラバウルの様子を思い出していました。
「本当にすごいところなんですよ。太陽がさんさんと降り注ぐしゃくねつが続いたかと思うと、ものすごい雨が降ったり。夜は真っ暗で、木には変なでっかい虫がはっている。そして、やしの実が40メートルくらいの高さにあるんだけど、20分に1回くらい落ちてくるんです。予告もなく、ドーン、ドーンと。そこで行軍とかのロケをしていると、孤独と死と隣り合わせになっている戦争というものが持っている容赦のない負の側面を、撮影とわかっていても感じるんです。そうまでして何を取ろうとしていたのか、一人一人の人間が戦争に関わったことによって、どうなっていったのか。水木さんは、実際に戦場にいて、腕を失って、心が折れて、そして再生した。それは、どれほどのことだったか。あれだけの明るい人間性を出されていましたが、多くの人が知らないであろう水木先生がここに書いてある気がしますね」

命懸けの演技

香川さんは水木さんを演じきるために、作品群の読み込みはもちろん、本人と会った際にあるお願いをしたといいます。
「左腕がラバウルで粉々になったことは知っていたわけだから、いろいろと話をうかがった最後に『その左腕を触らせてください』って命懸けで言ってみたら、そしたら『あ、いいですよ』と言われたんです。服の袖から手を入れて左腕をそっと触ってみたら、本当にもこの表現としか言えないんだけど、里芋が1個出ているだけなんだよね。それはたぶん骨なんだけど。でもそこには血も何も通っていない。とにかく冷たいの。もう冷たいの。その時に、その左腕に向かって僕は命懸けでこの人を演じなければならないと思ったんです」

何が何でも「生きる」という選択

それほどの決意を持って水木さんに迫った香川さん。インタビューの最後に水木さんにとって戦争とは何だったと思うか尋ねました。すると、香川さんは私の想像とは少し違うことを語りました。
「水木さんにとって戦争は原体験であったし、水木さんのすべてを作ったことだと思うし、それがなければその後の水木さんもなかったかもしれないと思う。だからといって戦争自体を肯定するわけではもちろんないし、非常に難しい問題ではあるけど、その時代に生まれて、戦争を経験して、それでも生き残った人がいてくれたとしか言えないんだよね。繰り返しますが、戦争が起きないとそれくらいの経験ができないと言っているわけではありません。言いたいのは、生きることを選択した水木さんの大きさを感じるということです。苦しさもつらさも苦みもすべて飲み込んで、自分の奥底に缶を潰すようにして圧縮して、そうして動く城のような気がしたから。それに俺が触れることができたのは幸せだった。こうしてメモと対面できて、もう1回、暖かい気持ちにならないといけないんだなと感じます」

もう1度手にとって

昭和から平成にかけて、がむしゃらに作品を描き続けた水木さん。取材を通じて、水木さんは体験した事実に徹底してこだわることで、戦争の実相が肌感覚で伝わるようにしようと試みていたのではないかと思いました。戦争を体験していない私たちは、次の時代をどう生きていくのか、水木さんの作品をもう1度手にとって考えてみたいと思います。
社会部
山口健記者

平成18入局
静岡局、沖縄局をへて
現在は社会問題を幅広く担当