“あきらめるな 光に向かって進め!”

“あきらめるな 光に向かって進め!”
「あきらめるな。光が見えるだろう?そこに向かってはっていけ!」

73年前、原爆投下によってがれきの下敷きになり、死を覚悟した少女を救った言葉です。
少女は今、86歳となりました。
その言葉を胸に、いまも核兵器をなくすために訴え続けています。

(広島放送局記者 野中夕加 アメリカ総局記者 籔内潤也 政経国際番組部ディレクター 永田彩香  映像取材部カメラマン 吉田純二 )

少女時代の壮絶体験が原点

その人は、カナダ在住のサーロー節子さん。
去年のノーベル平和賞の授賞式で演説した被爆者です。

サーローさんは1932年、昭和7年に7人きょうだいの末っ子として広島市で生まれました。高等女学校・今の広島女学院に入学してからは英語やピアノの授業を楽しんだそうです。
その日常をすべて失ったのが13歳、1945年8月6日でした。その朝は爆心地から1.8キロ離れた旧日本陸軍の第二総軍司令部に学徒動員されていました。戦地から送られてくる軍の暗号を解読する任務でした。およそ30人の同級生とともに作業を始めようとした、次の瞬間。すさまじい閃光とともに体ごと爆風に吹き飛ばされ、気が付くと建物の下敷きになり動けませんでした。真っ暗な中で、辺りからは「お母さん助けて。神様助けてください」という同級生の悲痛な声が聞こえてきました。
「私はここで死ぬのだな」とあきらめかけていたとき、自分の肩に誰かの手が触れているのに気付きます。「あきらめるな。動き続けろ。光が見えるだろう?そこに向かってはっていけ」と声をかけられます。
その言葉で、生きるという強い気持ちを持って、とにかく急いでがれきの外に出ようと思い、わずかに見える光に向かってはい出し、何とか助かりました。後ろからは火の手が迫っていて、がれきの下敷きになった多くの同級生は生きたまま焼かれました。原爆投下で広島では、1945年末までにおよそ14万人が死亡し、73年たった今も、多くの人が健康被害に苦しみ続けています。

この壮絶な体験がサーローさんの原点となっています。

北米で被爆者として生きる

大学卒業後の1954年、サーローさんはアメリカに留学しました。

この年、アメリカは太平洋のビキニ環礁で水爆実験を行い、操業中だった静岡県のマグロ漁船、第五福竜丸の乗組員も被爆しました。いわゆる「ビキニ事件」です。
当時、サーローさんは現地で取材を受け、被爆者として次のようにコメントしました。

「怒りを感じる。広島・長崎でも多くの人が苦しんでいるのに、こりごりだ。核実験はやめるべきだ」
しかし、この意見は当時のアメリカ社会には受け入れられませんでした。「日本へ帰れ。真珠湾を忘れるな。殺すぞ」と脅迫する手紙が届き、教室に出られなくなり、恐怖と孤独に苦しめられました。普通ならそのあと口をつぐんでしまいそうですが、サーローさんは屈しませんでした。

「私が発言しなかったら、原爆が人類に対してどのようなことをするのか、語る人がいなくなるのではないか」

広島を語り続けることを決心したのです。

そして、大学の周辺など身近な場所から被爆体験を語り始め、カナダ人の男性と結婚し、2人の子どもを育てながら活動を続けてきました。
ただ、原爆投下が戦争の終結を早めたという世論が根強い北アメリカでの活動は簡単なものではありません。

日本が戦争で戦ったアメリカ人、そして、アジア系の人たちからは、戦時中に旧日本軍が行ったことを考えれば原爆投下は当然の仕打ちだという主張をぶつけられることもしばしば。サーローさんを取材する過程で、私たち取材陣もそのような場面を何度も目撃しました。
アメリカ・ニューヨークで被爆体験を語った後には、中国系の女子高校生に「旧日本軍は罪のない多くのアジアの人たちを殺しました。原爆で亡くなった人たちと、どちらの側の被害が深刻だと思いますか」と聞かれました。

これに対して、サーローさんは次のように答えました。
「命を失うことにどちらの側もありません。とにかく殺されてしまうのです。中国人であろうと、日本人であろうと、韓国人であろうと。広島、長崎について語るとき、大切なことは、日本は被害者であり、加害者でもあるという意識です。どちらがより悪いという問題でもありません。殺戮そのものが悪なのです」
そして、講演の後には、その高校生に寄り添い、やさしく語っていました。こうして立場や意見の異なる人たちにも核廃絶の必要性を訴え、共感を広げてきたのです。

核兵器の禁止を

サーローさんはこの10年あまり、国際NGO、ICAN=核兵器廃絶国際キャンペーンのメンバーと活動をともにしています。各国の外交官が集まる国際会議に参加し、核兵器がいかにおそろしく、一度使われると取り返しのつかない事態を引き起こすか、被爆者の立場で訴えてきました。
演説を行うとき、サーローさんは心に届く言葉を探して、何度も原稿を書き直します。2017年の核兵器禁止条約の交渉で演説を頼まれた際には、核兵器の被害を知らない各国代表に、想像を絶する被害を想像してもらえるように腐心。ぎりぎりまで推こうを重ね、原爆で4歳だったおいが見るも無残に変わり果てた姿で亡くなったこと、そして、いまも同じように、核兵器によって世界中の多くの子どもたちが命を脅かされている、と訴えました。
演説のあと、議場では各国代表からの拍手がしばらく止まらず、条約を成立させるという機運が高まりました。そして、去年7月、核兵器を法的に禁止する初めての国際法、「核兵器禁止条約」の採択につながりました。

複数の国の代表が交渉の中で、「サーローさんは条約の採択に特別な役割を果たしてきた」と語っています。条約が採択された時には122の国と地域が賛成しましたが、これまでに署名したのは69。12月25日現在、このうち、メキシコやオーストリア、タイ、ウルグアイなど19の国と地域が国内での承認を行い、批准を済ませています。

この数が50に達すると、核兵器禁止条約はその90日後に発効することになります。ICANでは今後、批准する国がさらに増えて、来年中には条約が発効するとみています。
去年12月には、条約の採択に貢献したとして、ICANがノーベル平和賞を受賞しました。世界におよそ1万4000発以上あるとされる核兵器をどうしていくのか。国際社会が今、問われている大きな問題です。

被爆地でさえも…

一方、日本国内に目を向けると、むしろ核兵器に対する市民の関心が少しずつ薄れてきているのではないかと不安になることもあります。

被爆地の広島でさえ、そう感じることがあります。
被爆者が毎月、街頭で行っている署名活動を取材したときのことです。日本を含む世界のすべての国が核兵器禁止条約に参加するよう求める署名なのですが、その日、足を止めた人はまばらでした。
長年、活動してきた被爆者の1人は「広島の人より外国人観光客の方が協力してくれる」とつぶやいていました。

寒空の下、道行く人たちに懸命に声をかける被爆者の背中は少しさみしそうに見えました。戦後73年のいま、被爆者が次々と亡くなっていくという現実があります。

被爆者の平均年齢は82歳。その数は15万4000人あまりと年々減少し、核兵器の恐ろしさや悲惨さを被爆者から直接、聞く機会が減っていることも禁止条約への関心が高まらない背景にあると思います。

核兵器禁止条約の発効に向けた国際的な機運の高まりと、唯一の戦争被爆国である日本国内での関心の薄さ。取材をしていても、そのギャップに苦しむ被爆者が大勢いると感じます。

命あるかぎり行動を

こうした中、サーローさんは11月、ノーベル賞授賞式のあと初めて来日し、広島と東京を訪れました。

広島では、母校の大学での講演、広島市長や知事との面会、地元のNGOとの意見交換などを連日行い、86歳とは思えない精力的な活動ぶりと発信力は、目を見張るものがありました。

行く先々でサーローさんが強調したのは、核兵器禁止条約についてです。日本政府は、この条約に参加しない方針を示しています。条約はアメリカやロシアなどの核を持っている国と持たない国の対立を深め、現実的な核軍縮につながらないとしています。日本は、今の安全保障環境では同盟国アメリカの核兵器による抑止力に頼らざるを得ないという立場です。
サーローさんは母校での講演で、戦争被爆国である日本の姿勢を厳しく批判しました。
「この条約は現在と将来の世代の問題に貢献するだけではありません。広島長崎で虐殺された幾十万の犠牲者達を含め、人類全体に貢献するための条約なのです。できるだけ早くこの条約を発効させることが私たちの第一の課題です。しかし日本政府はこの条約の批准を拒否しています。73年間被爆者は核兵器の非人道性を語り続けてきたにもかかわらず、政府は被爆者や国民の声を無視し続け、被爆者と国民を裏切っているのです。核兵器大国アメリカに追従し無数の人間を大量虐殺する用意があるという脅しの戦略に頼り切っているのです。日本がです。誤った幻想です」
今回サーローさんとICANは、安倍総理大臣に直接訴える機会を政府に要請していましたが、面会はかなわず、西村官房副長官が対応しました。

政府は「日程上の都合だ」と説明。
人生をかけて、核廃絶を訴え、ノーベル平和賞受賞にも貢献した被爆者の訴えに、日本のリーダーとして直接耳を傾けることができなかったのか、と思います。

次の世代へ

訪問中、サーローさんは若い世代との交流に力を入れていました。中でも、特別な思いで訪れたのが、広島市から1時間半ほどの山間にある広島県立三次高校でした。

この高校の生徒たちは、英語の授業で、ノーベル賞授賞式での演説を聞いて、それぞれが感じた思いを手紙に記して、カナダにいるサーローさんへ送りました。その手紙を受け取ったサーローさんは、来日前から三次高校をぜひ訪れたいと話していて、広島滞在の最終日にそれが実現したのです。
11月30日、全校生徒に迎えられたサーローさんは、講演という形式ではなく、生徒と同じ目線で語り合いました。

「実体験のない自分たちに何ができるのか」
「平和のために若者が持っている力ってどんなものか」

生徒たちの質問に対し、サーローさんは、生きる意味を探し続けた思春期に、二度と被害が出ないように世界に向けて語り続けることが自分の責任だと確信したと述べました。
そして、2時間以上に及んだ交流会の中で生徒たちに次のように語りかけました。
「近い将来、あなたがたが社会の担い手になるでしょう。私も87になろうとしています。活動できるのも残りわずかです。ですから、私の思いを語って下さる若い人たちにその責任を託したいと思います。私たちがいま必死になって守ろうとしているのは、あなたたちの将来です。だからその中心になってください」
手紙を送った生徒の1人、高校3年生の雲井絢子さんは、ノーベル賞授賞式でのサーローさんの演説を聴いて、自分も世界の人の役に立てるよう、動き出さないといけないと感じるようになりました。

そして、「紛争で苦しんでいる人の看護をできる看護師になりたいと考えています。サーローさんの思いをもとに変わろうとしている若者もいます。平和に向けて一緒にがんばりたい」と直接サーローさんに伝えました。サーローさんの言葉を、若者たちが、自分たちのこととして受け止め、一歩を踏み出し始めています。

粘り強く、進め

サーローさんは86歳のいまも、核兵器をなくしたいと、体調が優れない中、命を削るように活動を続けています。

最後に、サーローさんが私たちのインタビューに語ってくれた言葉を引用したいと思います。
「最終的に核兵器を廃絶する瞬間に至るまでには何年、何十年かかるか分かりません。でも分からなくても、一歩一歩、その目標に向かって、粘り強く進んでいかなければいけない。自分の子孫のためにこの世界を手渡さなきゃいけない」
サーローさんの信念、そして決意を受け止めて、少しでも多くの人に平和について考え、なにか動いてほしいと思います。
広島放送局記者
野中夕加
アメリカ総局記者
籔内潤也
政経国際番組部ディレクター
永田彩香
映像取材部カメラマン
吉田純二