新発見映像が語る!知られざる1964東京パラリンピック

新発見映像が語る!知られざる1964東京パラリンピック
1964年の東京パラリンピックで日本が獲得した10個のメダル。そのうちの7個は神奈川県小田原市の療養所の患者によってもたらされました。その事は広く知られていません。地元の英雄なのになぜ?と思い取材を進めると、貴重な映像が保管されていることがわかりました。そこに映し出されていたのは、私たちが知らなかった54年前のパラリンピックのありのままの姿でした。(横浜放送局記者 澤田恵理)

貴重映像を新発見!

神奈川県小田原市にある箱根病院。都心から離れ、自然豊かな場所にあります。

この病院が、パラリンピックにゆかりがあるという情報をたまたま耳にして地元の取材先に聞いてみましたが、事情を詳しく知っている人はほとんどいません。

どうやら、1964年の東京パラリンピックに多くのメダリストを輩出したらしいのです。

「当時の写真や資料があれば何でもいいので見たい」と箱根病院に取材を申し込みました。

取材当日、院長室に入るとテーブルの上にはDVDの山が。
病院の敷地に今も残る築82年の旧・国立箱根療養所の管理棟から当時のフィルムが見つかり、DVDにダビングされたものでした。

開会式で華々しく入場行進し、競技に打ち込む選手たちがカラーで映し出されています。
さらにパラリンピックに向けて病院の中で練習をする選手たちを記録した白黒の映像も見つかりました。
合わせて1時間半のこの映像は、障害者スポーツの団体も把握しておらず、一部の関係者しか知らない貴重な映像だったのです。

“国立箱根療養所”とは…

なぜ病院にパラリンピックの貴重な映像が残されていたのか。

それには、この病院の歴史が深く関係しています。

この箱根病院。もとは、日露戦争によって手足を失った傷病兵を収容するための施設「廃兵院」を起源とします。
最初は都内にありましたが、1936年に現在の小田原市に移転したあと、全国で唯一、戦争による脊髄損傷患者を専門とする療養所が併設されます。

戦後は、「国立箱根療養所」と名前を変え、交通事故などでけがを負った一般患者の受け入れも始めました。

下半身不随になった人の社会復帰は難しいと思われていた時代。都心から離れたこの場所に全国から患者が集まり、ここで一生を過ごしました。
箱根病院の小森哲夫院長は、当時の時代背景について「時代として、障害者を隔離したかったのだと思います。障害者は世の中から認めてもらえる存在ではなかったのだと思う」と話していました。

急きょ決まった東京大会

障害者への差別や偏見が色濃く残る時代。転機となったのがパラリンピックの招致でした。

1963年。翌年、東京でパラリンピックが開かれることが正式に決まります。

国やリハビリの専門家は急きょ選手集めを迫られました。当時のパラリンピックは車いすの選手だけが参加する大会でした。

そこで、箱根療養所の患者たちに白羽の矢が立ちました。

しかし、多くは参加に消極的だったと言います。

障害のある体を多くの人に見せることへの抵抗感があったからです。

みずからの意思とは裏腹に突然大会に出ることになった療養所の選手たち。敷地には急きょプールが作られ、大会までの時間が迫る中、選手たちは慣れないスポーツの技を学び続けました。

54年前の東京大会は

東京大会は、オリンピック開催後の11月に行われました。

パラリンピックという名前が使われた初めての大会でもありました。

アメリカやイギリス、イスラエルなど、世界の21の国などから378人の選手が参加しました。日本からは53人の選手が出場し、代表の3分の1にあたる19人もの選手が箱根療養所から選ばれました。

実施された競技は、アーチェリーやフェンシング、水泳、卓球など9競技でした。

日本が獲得したメダルは10個。箱根療養所の選手はこのうちの7個を獲得する大活躍でした。

家族すら知らない初代メダリスト安藤徳次

パラリンピック史上、日本選手として初のメダリストになったのも、箱根療養所の選手でした。安藤徳次選手です。

弓を使った競技(アーチェリー、ダーチャリー)で銀と銅の2つのメダルを獲得しました。今回見つかった映像の中でも、大会で活躍する安藤選手の様子が記録されていました。
安藤徳次とは、いったいどんな人物だったのか取材を進めました。

しかし、選手のプロフィールを調べようにも、資料も関係者もほとんど見つからず、電話帳を頼りに捜した結果、都内に妹がいることがようやくわかりました。

菊池みち子さん(83)です。
菊池さんは兄が弓の競技を行っていたことは知っていましたが、メダルを取ったことも、パラリンピックに出たことも、知らなかったと言います。

当時は、パラリンピックへの報道も少なく社会の関心が薄かったのです。
今回見つかった映像を菊池さんに見てもらいました。菊池さんは映像のなかの兄の姿を探します。

「なんかそれ、そうみたい!一番手前。生き生きしてるね~!すごい生き生きしてる!!」

兄の姿をじっと見つめる菊池さん。これまで、菊池さんの記憶に強く残っていたのは生きる希望を無くした兄の表情でした。

兄を変えたスポーツの力

兄の徳次さんが事故で下半身不随となったのは、大会から10年余り前、20代のころ。結婚前だった菊池さんは、1年間病院に泊まり込んで、看病しました。

当時の兄の様子について、菊池さんは「歩けないし、1人では横にもなれなかった。私には言わなかったけど、兄貴は『俺、死んだほうがいいな』って思ってたんじゃないか」と話していました。
それがパラリンピックを通じて安藤選手は療養所の中でも代表的な存在になりました。その後は画家としてみずからの腕で人生を切り開き、14年前に76歳で亡くなりました。
菊池さんは、「いろんな苦労をしただろうけど、本当に偉い兄貴だと思いました。スポーツの力で人間が変わったんじゃないかと思います。わが兄貴ながら誇りに思う」と話していました。

パラが人生の転機に

箱根療養所から東京パラリンピックに出場した選手に話を聞くことができました。卓球で出場した長谷川雅巳さん(83)です。

けがをしてから人前に出ることに消極的だった長谷川さんは大会で見た外国人選手たちの明るく自由な行動ぶりにその考えを一変させたといいます。
買い物を楽しみ、さまざまな国の人と陽気に交流する様子は人前に出ることが少なかった日本の選手には驚きの連続でした。
「アルゼンチンの選手だったと思うが、バスに乗ってキャッキャと騒いでいた。まるで普通の小学生が遠足に行くような様子です。人の目が気になるとか、けがをしたから、障がい者だから嫌だとか、そんなのまるっきり考えていないもんね」

障害があっても、人生を楽しみ、挑戦したい…。長谷川さんは療養所を出て、社会保険労務士として独立し、それまでは考えてもいなかった結婚もしました。83歳の今も、買い物に出かけることを楽しみにしています。

1964から2020へ

2020年へ向けて注目が集まるパラリンピック。

しかし長谷川さんは、障害者が社会でまだ十分に認められているわけではないと感じています。1人1人の心の問題だというのです。
「子どもたちは車いすバスケを見て、車いすですごいなと、あんなことができるんだって素直に見ている。あの目を大人が持つようになってほしいと思います。無知と偏見が氷解していけば、社会はだんだん良くなっていくんじゃないかと期待している訳ですよ」

さらに長谷川さんが私に繰り返し話していたことがあります。

それは、バリアフリーなど障害者が外に出て行きやすいハード面での環境は整ってきているものの、障害のある人に対する気持ちは54年前からなかなか変わっていないということです。

1つの例として、ニュースでも伝えられた障害者雇用の不正の問題をあげていました。

今回、新たに見つかった箱根療養所の映像とそこに映っていた人々の思い。

2度目の東京パラリンピックがすべての人にとって暮らしやすい社会になるための一歩になってほしいと訴えているように私は思いました。
横浜放送局
小田原支局 記者
澤田恵理