香りの苦しみ

香りの苦しみ
香水や柔軟剤、それに消臭スプレーなど、私たちの周りに漂うさまざまな“香り”。「自分の不快なにおいで、周りの人から嫌がられたくない」「いい匂いで異性をひきつけたい」。そんな思いから“香り”を身にまとう方も少なくないかもしれません。しかし、その“香り”が誰かを苦しめているとしたら…。(社会部記者 勝又千重子)
顔の大きさの半分はあるであろう大きなマスク。待ち合わせ場所に現れたその女性は、口をハンカチで押さえた上から3枚のマスクを重ねて、顔を覆っていました。

マスクは3重に

顔の大きさの半分はあるであろう大きなマスク。待ち合わせ場所に現れたその女性は、口をハンカチで押さえた上から3枚のマスクを重ねて、顔を覆っていました。
佐々木香織さん
宮城県名取市に住む佐々木香織さんは、このようにマスクを装着しなければ「頭がくらくらして倒れそうになったり、ハンマーでたたかれるような激しい頭痛になったりする」というのです。

10年間、看護師として働いていた佐々木さんは、日常的に薬品や洗剤などを扱っていました。おしゃれも大好きで、人に会う時は必ず化粧やマニキュアをしていました。しかし…。

急激な体調の変化に戸惑い

佐々木さんに変化が訪れたのは5年前の6月。突然、体に力が入らなくなり、立っていられないほどの脱力感に襲われたのです。

そのころ、自宅の近くでは住宅の建て替え工事が行われていて、新築の住宅のにおいを嗅ぐと気分が悪くなりました。その2か月後には、洗濯用の柔軟剤の香りなどでも同じ症状が出るようになったのです。そして、職場で使っている消毒液のにおいにも耐えられなくなりました。ついに退職せざるをえなくなったのです。

仕事が生きがいだったという佐々木さんは「においで体調が悪くなるって『なんで?』『どうして?』『どういうこと?』って、周りの人にも理解してもらえなくて、生き地獄のような感じでした」と涙ながらに語りました。

佐々木さんが病院に行くと、医師から「化学物質過敏症」と診断されました。化学物質過敏症は、人工的な「香り」を嗅ぐことで、それに含まれる化学物質に体が敏感に反応し、体調を崩してしまうのです。私たちには感じないにおいでさえも、猛毒のように感じる人もいるといいます。

化学物質過敏症患者 全国で700万人

佐々木さんのような化学物質過敏症の患者は、実はそれほど珍しくありません。患者数は、全国でおよそ700万人にのぼると推計されています。
宮田幹夫医師
化学物質過敏症に詳しい、北里大学名誉教授の宮田幹夫医師は「発症のメカニズムはよく分からないが、化学物質がその人の耐えうる力(蓄積量)を超え、神経に影響を及ぼすと、化学物質過敏症になってしまう。室内の空気にも3000種類以上の化学物質が漂っていると言われている時代ですし、食品添加物も入れたらさらにどれぐらい入っているか分からない。だから、誰でもなる可能性がある」と話しています。宮田医師は今後も患者数は増加するとみています。

香水の使用自粛を呼びかけ

化学物質過敏症の患者のように、“香り”に苦しむ人たちに配慮しようという動きも始まっています。

名取市にある尚絅学院大学。この大学ではすべての学生に学校生活についての面談を行っています。
ことし5月、入学したばかりの1年生から、まわりの人が使う香水やタバコのにおいで体調を崩してしまうと相談がありました。体調が悪くなると、1日寝込んでしまうこともあるということです。この学生は「どこでどんなにおいに遭遇するか分からず、学生生活を送ることが不安だ」と訴えました。
大学は、この学生から「隣のロッカーの芳香剤のにおいが気になる」という指摘を受けて、場所を変更する措置を取りました。さらに、柔軟剤や香水などの使用自粛を呼びかけるポスターを掲示板に貼りました。
この学生は「いつもこちら側が香りを避けるように言われてきたので、不安に対処してくれたのはすごく心強かった」と話していました。

尚絅学院大学の健康栄養学科の東門田誠一准教授は「化学物質過敏症の患者がいるということを学生に認識してもらいたい。そして一人一人が気をつけることを啓発していきたい」と話しています。

理解されない苦しみ

今回の取材の中で心に残っているのは、「化学物質過敏症」の佐々木さんの「症状はつらいけれど、苦しんでいることが理解されないことが一番つらい」ということばでした。現代社会に生きる私たちは、多くの化学物質に囲まれて生活しています。あなたの隣にも化学物質過敏症に苦しむ人がいるかもしれません。すべての化学物質を排除して生活することは現実的ではありません。しかし、“香り”に苦しむ人たちに思いやりを持って、配慮することで、少しでも過ごしやすい社会になるのではないかと感じました。