将来の天皇どう育てるか模索 終戦直後の側近日誌明らかに

将来の天皇どう育てるか模索 終戦直後の側近日誌明らかに
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天皇陛下の少年時代の側近が書き残した日誌に、終戦直後の混乱期、将来の天皇をどのように育てていくべきか、側近らが模索を重ねた様子が詳しく記されていたことがわかりました。専門家は「平成の天皇制の原点を知ることにつながる貴重な資料だ」としています。
榮木忠常元東宮侍従は、終戦間際に当時小学6年生だった天皇陛下の側近となり、疎開先の栃木県日光で天皇陛下とともに終戦を告げる玉音放送を聞くなど5年近くにわたってそばで支えました。

榮木元東宮侍従は、日々の出来事やほかの側近とのやり取りを日誌に記録していて、NHKは遺族から提供を受けて内容を分析しました。

連合国軍の進駐が始まる4日前の昭和20年8月24日には、本土決戦に備え軍や政府の中枢を移す予定だった長野県の松代が、天皇陛下の今後の生活の場として候補に挙げられていたことが記されています。

終戦直後、側近たちは天皇陛下の東京のお住まいや学習院の校舎などが空襲で焼けたため、安全に暮らし学べる場所の確保を迫られていました。

榮木元東宮侍従は同じ日の日誌に、教官の通勤をどうするのか、同級生も連れて行くのか、海軍兵学校がある広島などほかに候補地がないかなど、さらに検討すべきことを記していましたが、3日後には幹部らと話し合った結果、松代を候補とし現地を視察することになったことが書かれています。

また終戦から5か月後、中学校への進学を控えていた昭和21年1月には、側近らの間で「イギリスに2年、アメリカに1年」などと戦勝国への留学の構想が議論されていたことも記されています。

結局、お住まいや校舎は東京の郊外の小金井に設けられ、留学も実現しませんでしたが、専門家は終戦直後の混乱期に少年期の天皇陛下をどのように育てようとしたのか、議論の内容や経過がわかる貴重な資料だとして注目しています。

象徴天皇制を研究している神戸女学院大学の河西秀哉准教授は「敗戦で天皇制が大きく変化する中、皇太子をどう育てていくか、側近たちが奮闘する様子がよくわかる。この時期の教育を知ることは平成の天皇制の在り方の原点を知ることにつながり、意味があることだ」と話しています。

昭和天皇の“親心”も記述

榮木元東宮侍従が書き残した日誌には、少年時代の天皇陛下に対する父・昭和天皇の親心がうかがえる記述も残されていました。

昭和24年5月の日誌には、中学時代東京の郊外の小金井で過ごされた天皇陛下のお住まいを、学習院高等科への進学を機に別の場所に移すべきか側近らで議論したことが記述されていました。

この中で、榮木元東宮侍従は「陛下モ東宮ヲ小金井ヨリ皇居ニ移シテハ如何トノ御意見」などと記していて、昭和天皇が、長年別々に暮らしていた天皇陛下をこの機会に皇居内に呼び寄せたいと周囲に述べていたことがわかりました。

日誌には、昭和天皇が天皇陛下の姉たちが暮らしていた「呉竹寮」という皇居内の建物の名前を具体的に挙げていたことも記されています。

天皇陛下は、天皇家の慣習に従い3歳から家族と離れて側近らによって育てられ、空襲でお住まいが焼失したことから終戦の翌年から小金井で生活されていました。

昭和天皇は、長年、天皇陛下をみずからの下で育てたいと考えていたとされていますが、この日誌の記述の2年前には「国民が住む場所もなく苦労しているなかで私情のために資材や経費を用いて皇居内に呼び寄せることは慎みたい」として断念する意向も示していました。

日本近現代史が専門の長野県短期大学の瀬畑源准教授は「同居できなくてもせめて気軽に会えるところにいてほしいという親心や、直接天皇としての自覚など大切なことを伝えたいという昭和天皇の心情がよくわかる。天皇陛下自身も子どもの頃にさみしかったとかもっと親の近くにいていろいろな話をしたかったという思いがあり、それがその後3人のお子さまを手元で育てられたことにつながったのだと思う」と話しています。

榮木元東宮侍従と天皇陛下

榮木元東宮侍従は、学習院や宮内省の事務官として少年時代の天皇陛下の教育に関する実務に長年携わり、終戦間際の昭和20年8月10日に皇太子を支える「東宮職」が設置されると同時に、東宮侍従に就任しました。

天皇陛下は当時11歳、学習院初等科の6年生で、戦局の悪化に伴って前の年の夏から同級生とともに栃木県 日光に疎開されていました。

榮木元東宮侍従は、8月15日には、日光のホテルの一室で天皇陛下とともに終戦を告げる「玉音放送」を聞き、そのときのことを日誌に「悲痛ノ涙ヲ以テ一同陛下ノ玉音ニ接シタリ」などと書き残しています。

榮木東宮侍従は、その後天皇陛下のお住まいや学校が東京に移っても、家族とともに同じ敷地内の官舎に住み、天皇陛下が高校2年生になられる頃まで、5年近くにわたって側近として支え続けました。

留学めぐる記述と後の欧米周遊

榮木元東宮侍従の日誌には、少年時代の天皇陛下の留学の時期について、国内である程度の教育を受け、十分に体力もついた4、5年後、つまり高校生になってからがよいと記されています。

そのうえで、まず2年ほどイギリスに留学して王室などについて学んだあと、さらにアメリカに1年ほど留学してアメリカの長所を見聞されるべきだとしていました。

また事情が許さないときは、アメリカ留学を先にして、その後イギリスに向かう途中に諸外国を巡るという案も記されていました。

留学が検討されたという事実は、昭和天皇の側近や連合国側の関係者が残した記録にも書かれていますが、結局、実現しませんでした。

しかし天皇陛下は、昭和28年19歳のときに、昭和天皇の名代としてイギリスのエリザベス女王の戴冠式(たいかんしき)に出席するため初めて外国訪問し、これに合わせて半年余りをかけてアメリカやヨーロッパ諸国などを巡られました。

識者「平成の天皇制知る資料」

象徴天皇制を研究している神戸女学院大学の河西秀哉准教授は「皇太子について、どういうところに住めばいいのか、どういう教育をしていけばいいのか、どういう風に人柄をつくっていけばいいのかを周りの人たちが一生懸命考えている。敗戦を迎え天皇制が大きく変化するなかで、側近たちがどういう新しい天皇制を構築しようとしていたのか、皇太子の存在をどういうふうにこれから考えようとしていたのか、断片的には少しずつわかってきていたが、それが日記から連続してよくわかる資料だ。この時期の皇太子教育を検討することは、今の平成の天皇制の在り方のまさに『源流』を知ることにつながっていく。それは平成が終わりを迎えるこの時期に、ものすごく意味があると思う」と話しています。