高岡城築城許可の書状 新たに見つかる

江戸幕府の2代将軍、徳川秀忠が加賀藩2代藩主の前田利長に宛てて、高岡城の築城を許可した書状が新たに見つかりました。
専門家は、徳川家と豊臣家の間で政治的な緊張が高まる中、利長が高岡城の築城を慎重に進めたことがうかがえる貴重な史料だとしています。

新たに見つかった書状は高岡市立博物館が古美術商から入手したもので、21日に報道関係者に公開されました。
書状は、2代将軍の秀忠が、加賀藩2代藩主の前田利長に宛てたもので、秀忠の花押があり、慶長14年5月・1609年に書かれたとみられています。
内容には、利長の生母である芳春院に高岡城の築城の許可を伝えていたものの直接、利長に伝えていなかったために工事が開始されていないことを初めて知ったとした上で、「早々に工事を命じられて結構です」と記されています。
調査を行った専門家によりますと当時は、関ヶ原の戦いを経て徳川家と豊臣家の間で緊張が徐々に高まっていく時期にあたり、新しく城を築いた外様大名が幕府から疑念を持たれる事態も起きていたため、利長が幕府からの築城の許可を慎重に待っていたことがうかがえるということです。
書状の調査にあたった高岡市立博物館の仁ヶ竹亮介主幹は「高岡築城の歴史的な経緯が詳しくわかる重要な史料で初めて見た際には興奮しました。当時、前田家と徳川家は政略結婚をしていましたが、文面からは両家の親しさとともに緊張関係も感じられる」と話しています。
この書状は12月9日から来年の2月12日まで高岡市立博物館で一般公開されます。