南大東島で見つかった砲弾の不発弾 陸上自衛隊が爆破処理

南大東島でかつてアメリカ軍が使用した砲弾の不発弾が見つかり、28日、陸上自衛隊によって大規模な爆破処理が行われました。

南大東島は、昭和9年に旧日本軍によって島の中央に飛行場が建設されたあと、太平洋戦争末期には住民が徴用されるなどして拡張工事が行われ、アメリカ軍の艦砲射撃や空襲に見舞われました。

このため、いまでも不発弾が見つかっていて、先月には、住民が畑を耕している際に当時アメリカ軍の艦艇から撃ち込まれた長さおよそ40センチメートルの「りゅう弾」が見つかりました。

危険性があり島から外に運び出せないため現地で処理されることになり、28日朝、陸上自衛隊の不発弾処理を専門とする部隊が那覇市内から航空機を使って爆薬を運び込びました。

そして、半径230メートルの範囲を立ち入り禁止にして処理が開始され、午前中、特殊な機材を使って信管を破壊する作業が行われました。

このあと、隊員たちが周囲に何もない海岸沿いの岩場に不発弾を移すと、爆薬を設置した上で土のうをかぶせるなどして不発弾の爆破処理が行われました。

爆破の際には、ドンという大きな音とともに周囲の岩が割れ落ち、白煙が立ちこめるなどしました。

また、周辺には爆破処理した「りゅう弾」の鋭利な金属の破片が散乱していました。

不発弾処理に立ち会った南大東村消防団の仲田茂生団長は「村民の近くにあり危険な状態だったので、ひと安心です。ただ、まだ島には眠っている不発弾があると思うので、子や孫の世代に残さないように早いうちに“負の遺産”を取り除いていきたい」と話していました。

南大東島では、昭和19年の「10・10空襲」に始まり、翌年の昭和20年3月以降はアメリカ軍による大規模な空襲や艦砲射撃を何度も受けました。

当時8歳だった宮平昌さんは、「夜通し艦砲射撃があり、真昼みたいでした。空が真っ白でした。音も1発ではなく、ボンボンボンと大きく鳴り響きあの音はひどかったです。眠れなかったです。いまでも忘れられません」と戦争当時を振り返りました。

そして、沖縄戦から79年となる今も不発弾が見つかっていることについて、「土地の基盤整備をするといまでも爆弾が相当、出てきます。北大東にはなかったが、南大東には旧日本軍の滑走路があったから被害が多かった。滑走路がなければ被害はなかったはずです。戦争しても何の一利もない。戦争については保守も革新も関係なく今、政治家たちが戦争を知らない世代ばっかりになっている。テレビで戦争のニュースを見ていたら世界中の子どもたちがかわいそうで、毎日泣いています。私たちが生きている間に戦争のことを語り継がないといけないと思っています」と話していました。