少女の死から59年 続く米軍訓練 同級生たちは今

59年前の6月11日、読谷村で、アメリカ軍のヘリコプターからパラシュートを使って物資を投下する訓練中、トレーラーが民間地に落下し、1人の少女が下敷きになって亡くなりました。

同級生たちは友人の死と今、どう向き合っているのか、西銘むつみ記者が取材しました。

【1965年6月11日に起きた事故】

アメリカ統治下の1965年6月11日、旧読谷補助飛行場を飛び立ったアメリカ軍のヘリコプター。

そこからパラシュートを使って投下されたトレーラーが民家の庭先に落下し1人の少女が下敷きになりました。

亡くなった、当時、小学5年生の棚原隆子さんです。

読谷村出身の同級生9人が、かつて同級生が命を落とした場所で隆子さんをしのんでいました。

【呼び起こされる記憶】

毎年この時期になると、彼女の面影、そして、あの日の記憶がよみがえってくるといいます。

(玉代勢義弘さん)
「小さくて丸い感じの目がぱっちりした女の子。それが一番印象に残っている」

(山川宗盛さん)
「お母さんのお手伝いはよくしていた」

(東智子さん)
「自分だったかもしれない。この押しつぶされたのが」

そして、その時、抱いた不安や恐怖は脳裏に焼き付いています。

(山内和美さん)
「友だち2人と帰る途中で、後ろから大きな声でおじさんが『うりうりうり、落下傘が落ちてくるぞ。早く早く逃げろ逃げろ』と言われて。見たら、こんな大きいトレーラーが私たちの頭の上に見えたんですよ。びっくりして友だちとよけたら、風に乗って私たちの頭の上から流れていったんですよね。流れていって途中で落ちたんですよ。そしたら電線がもうパチパチパチパチッと燃えて。おじさんが隆子ちゃんを抱き上げて運んでいったまでを見ていますね。喉のほうに何かケガしているのまでは見ています。いまでも思い出したら涙が出ます」

1人1人に刻まれた事故の記憶。
その後もたびたび呼び起こされてきたといいます。

【終わりの来ない基地と隣り合わせの生活】

アメリカ軍が戦争に備えて繰り返してきたパラシュートを使った降下訓練。

1972年に沖縄が本土に復帰して以降、基地の外に兵士が降りたり、ものが落ちたりしたケースは38件にのぼります。

そして、事故現場からおよそ5キロの距離にある嘉手納基地では今もこの訓練が繰り返されています。

(山川宗盛さん)
「60年前、まだ復帰していませんよね。だからあの頃はもう、米軍、米国がやりたい放題でしたのでね。それから、50年たってね、復帰して、それから、まだまだ、改善されていないわけでしょ」

同級生たちは、終わりの来ない基地と隣り合わせの生活にあきらめにも似た感情と、この状況を変えたいという相反する気持ちを抱えているように見えました。

(新城フサ子さん)
「感じなくなってるんですよ、怖いぐらい、こういう記事、新聞、ニュース見てもね・何も感じなくなったら大変なことになるなと思ってね」

(東智子さん)
「絶対、沖縄に平和は取り戻さないといけない。そういうあまり大きなことは言いませんけど」

【隆子さんの母親から届いたプレゼント】

突然、命を奪われた棚原隆子さん。

残された両親と、4人のきょうだいは地元を離れ、ブラジルに移り住みました。

隆子さんが暮らしていた地区の公民館に飾られた額。

ブラジルの人たちに親しまれているモルフォチョウの飾りです。

世界で最も美しいちょうの1つで隆子さんの母親、艶子さんが里帰りした際、地域の人たちにプレゼントしました。

(山川宗盛さん)
「あの時にブラジルに行っているわけだから、もうすべて忘れたいという気持ちもあったでしょうけども、でも、この地域の、私たちも含めてね。感謝(の思い)でいらしたんじゃないかなというふうに私は思う。だから、もっともっと気をつけながら実際過去にあった唯一大きな(地元の)事件事故だからね、そこのところをもっともっと真剣に考えながらあの子の冥福を祈りつつ頑張っていかなければいけないのが私たちなんですよね、忘れてはいけないですよね」

【取材後記】
亡くなった棚原隆子さんの同級生たちは、事故の記憶を風化させないために「自分たちにできることはないか考えていきたい」と話していました。