王の肖像画「御後絵」発見と返還の経緯 返還されたのは4点

琉球王国時代に描かれた歴代の王の肖像画は、「御後絵」と呼ばれ、王を偲ぶ遺影として琉球王府の絵師が当時の最高の技法を駆使して描いたと伝えられます。

王は中央にひときわ大きく描かれ、その周囲を家臣らが囲む構図で、王の威光が強調されています。

装束などには龍があしらわれ、描かれ方や構図には当時、関係が深かった中国の影響が見られます。

王1人につき複数枚がさまざまな大きさで描かれ、大きい物は縦2メートルほどのものもあったと伝えられます。

琉球王国時代は首里城に隣接する円覚寺に置かれていましたが、明治時代の中頃、首里城近くにある旧王家・尚家の邸宅、「中城御殿」に移されました。

正確な点数は分かっていませんが、戦前、邸宅に手伝いとして出入りしていた真栄平房敬さんは、20点ほどあったと証言しています。

真栄平さんによりますと、当時、中城御殿には御後絵のほか王冠や王の装束など数多くの宝物が保管されていたということです。

真栄平さんは、沖縄戦でアメリカ軍が旧日本軍司令部壕のある那覇市首里に迫った1945年4月、宝物を中城御殿の排水路や岩陰など7か所に避難させましたが、戦後、訪れた時には何も残されていなかったということです。

その後、戦後79年間にわたり、御後絵の行方は分からず、王の御後絵は戦前に撮影された10点の白黒写真が残るのみとなっていました。

戦後79年間にわたり行方が分からなくなっていた御後絵は、アメリカ・ボストン近郊の退役軍人の住宅の屋根裏で、遺品を整理していた家族によって発見されました。

家族は去年、「盗難美術品かもしれない」とFBI=連邦捜査局に連絡しました。

御後絵を含む文化財13点は2001年にFBIの盗難美術品リストに登録され、写真などがウェブサイトで公開されていました。

このリストは沖縄戦のさなか、御後絵など旧王家の宝物を避難させた男性の証言などを元に沖縄県が要請して作られました。

今回、御後絵や香炉とみられる磁器などと一緒に見つかった匿名の手紙には「沖縄から持ち帰った」とか「沖縄最後の王の息子である尚男爵邸の廃墟で拾った」などと書かれていました。

FBIは東京のアメリカ大使館と外務省を通して沖縄県に連絡するとともにスミソニアン協会国立アジア美術館に鑑定を依頼。

その結果、沖縄由来の文化財だと分かり、先月、沖縄県に返還されました。

捜査にあたったFBIのジェフリー・ケリー特別捜査官は「こうした何十年もたった“コールドケース”は、盗難がいつ発生したのか、被害者さえ分からないことはよくあるし、捜査をしても最後まで由来が分からないことも多く、謎は謎のまま残る。今回は手紙があったことが驚くべき点だった。親から子へと遺品が引き継がれるタイミングは、こうした盗難文化財の発見の機会になる」と話しています。

アメリカから返還された御後絵は4点です。

このうち2点について沖縄県は、戦前に撮影された白黒写真と照らし合わせた結果、13代「尚敬王」、18代「尚育王」とみられるとしています。

ほかの2点のうち1点は、軸の部分に「尚清様」と書かれていることから「四代尚清王」とみられるということです。

また、別の1点はもともとは1枚だったものが、何らかの理由で3枚に分割されていて、描かれている人物が誰なのかは、確認出来る資料がないため分かっていないということです。

琉球国王の王冠などは「琉球国王尚家関係資料」として国宝に指定されていて、御後絵も王の関係資料であることから専門家の間では「国宝級」の文化財だと評価する声も上がっています。

今回、戦後初めて現存が確認され、その色彩などを詳細に確認できるようになったことで、県は琉球・沖縄の美術史や文化史の研究を進める重要な手がかりになると期待を寄せています。

来月中に専門家会議を設置し、顔料などを科学的に分析して修復に向けた検討を進めることにしています。

沖縄県の瑞慶覧勝利文化財課長は、去年、アメリカ側から連絡を受けた時のことを振り返り、「最初は、本当に見つかったのかなという印象だった。沖縄に届いた箱を開封して御後絵などの文化財が無事に届いたと確認できた時は、非常に感動して職員たちと皆で喜び合った」と話していました。

今後については「専門家の知見を借りて顔料の分析などを進め、保存・修復につなげたい。返還された文化財を県民の方々に展示できる機会を設けることができたら幸いだと考えている」と話していました。