百歳の元教師の足跡をたどる 戦争と平和

【百歳の元教師が伝えたいこと】

戦前に教師になり、沖縄戦を生き抜き戦後も教壇に立ち続けた100歳の女性がいます。その足跡をたどり、今、何を思うのか取材しました。

               (NHK沖縄放送局キャスター 宮城杏里)

読谷村に住む、大湾澄子さん、100歳です。この日、訪れたのは、戦前、教べんをとった学校の跡地です。

(大湾澄子さん)
「日本が負けることはないと、必ず勝つんだと、みんなその意気込みですよ。そういう教育を受けさせられているし、そのようにしてやってきましたので迷いなんてかったですね」

【学校生活に忍び寄る戦争の足音】

大湾さんは、今から86年前の昭和13年、那覇市にあった県立第一高等女学校に入学。卒業後は教師を目指し、師範学校に通いました。沖縄に忍び寄る戦争の足音。
それを肌で感じていました。

(大湾澄子さん)
「私たち(師範学校の)2年生までセーラー服をつけてオーダーした靴を履いて行ったんですが、3年くらいからモンペ姿で学校にも行っていたんですよ」

授業数は減り、「なぎなた」などの訓練の時間が増えていきます。

(大湾澄子さん)
「当時は(太平洋)戦争が激しくなりつつあったので、小禄飛行場に行って射撃訓練。銃後は女子が守らないといけないと、腹ばいになって、鉄砲を鎖骨にしっかりつけるようにと言われて、1人4発ずつ撃ったんですね」

【22歳 国民学校の教師に】
地上戦が始まる2年前の昭和18年4月、地元・読谷村にあった「古堅国民学校」で国語の教師になります。22歳でした。

緊急事態には身をささげて国のために尽くすことなどが示された「教育勅語」を重んじる教育が行われ、子どもたちは飛行場の建設などにかり出されていました。

(大湾澄子さん)
「教育勅語というのがあったんです。私も相当忘れましたが、「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國」というふうにね、それを覚えさせたりしましたね。授業どころではないんですよ、上級生は穴掘りとかいろいろな仕事をする」

【それまでの考え方を一変させた戦争体験】

しかし、戦場体験がそれまでの考えを一変させます。

昭和20年3月下旬、アメリカ軍は沖縄本島の西およそ40キロにある慶良間諸島に上陸。読谷村の自宅近くの海からその様子を目にしました。

(大湾澄子さん)
「見たんですよ、確かにアメリカの船だと思う。船慶良間あたりですかね、もう海が光りピカピカです」

学校は日本軍に接収され授業は行われていませんでした。アメリカ軍が迫り来る中、大湾さんは家族や集落の人たちと本島北部に向けて避難しました。木の実や沢の水で飢えをしのぎながら移動を続ける中、日米両軍による戦闘を目撃したことで、戦争とは何か、初めて理解できたといいます。

(大湾澄子さん)
「アメリカの兵隊と日本の兵隊が、戦争しているんですよ。銃弾がバリバリバリバリして、私も山のてっぺんでガタガタガタしながら木の根っこで隠れていたら、少しやんだので下りてみたら日本の兵隊やアメリカの兵隊が戦死しているんです。戦争は勝っても負けてもどちらの国もみんな犠牲者がこうして出るんだな」

【収容所で始まった授業】

数週間後、家族と収容所にたどり着きました。しばらくすると、自然発生的に学校が開設されていきます。大湾さんは再び教壇に立ちました。

(大湾澄子さん)
「学校といっても、馬小屋教室でただ黒板とチョーク1本だけあるわけです。私、国語を担任していましたからね、教科書もないし、何もないんですけど短歌なんかね、五・七・五・七・七の短歌なんかを説明しながら教えていましたね」

【戦後の教育で呼びかけた平和】

軍国主義に拍車をかけたとされる戦前の教育。戦後は、中身が大きく変わり、平和や男女平等の大切さを伝えていきました。

(大湾澄子さん)
「戦場にあった沖縄の子どもたちはそれこそ一生懸命に追いつかんといかんなということを感じましたよ。時代がこのように変わったということを、男女問わず保育も、家庭の料理も一生懸命に協力してやるんだということを教えましたね」

「争いは対話で解決する」、「二度と教え子を戦場に送らない」
大湾さんが戦後、抱えてきた思いです。

(大湾澄子さん)
「ことばの違いなんかもあると思うんだけどね、なんとか時間をかければ解決の道を開くんじゃないかなと思うんですがね。勉強しようが運動しようが、あるいは野球選手になろうが、とにかく平和でないといけないんですよ。戦争していてもそこには何もないんです。だから平和、平和を唱えていきたいですね」