沖縄戦へ向かう社会といま 〜1944年の嘉手納〜

1944年。沖縄では日本軍の第32軍が編成され、飛行場や陣地の建設など戦争に備える動きが本格化しました。当時の社会の動きは、その後の沖縄にどのような影響を与えたのか。あらためて見つめ直します。

(NHK沖縄放送局記者 河合遼)


【戦前までさかのぼって伝える基地問題】

極東最大級のアメリカ軍嘉手納基地を一望する道の駅。その一角にある展示は、基地問題がどのような経緯で生じることになったのか、戦前までさかのぼって伝えています。

沖縄戦で嘉手納町付近に上陸したアメリカ軍。その後、基地を建設していきます。そして住民を悩ませ続ける騒音の体験も。

歴史を知った上で沖縄の現状を考えて欲しいとしています。

【中飛行場をつくった男性は】

その嘉手納基地を、いま複雑な思いで見つめている男性がいます。瀬名波榮喜さん、95歳です。80年前、この基地の建設に携わりました。

(瀬名波榮喜さん)
「異国までも外国までも攻めるような飛行場つくってしまったのかという風にいま感じておりますね」

嘉手納基地の近くには、瀬名波さんが通っていた県立農林学校の校門が残されています。1944年4月、瀬名波さんは希望を抱きながら入学しました。

(瀬名波榮喜さん)
「小学校で勉強できなかった物理とか化学とか、あるいは英語とか。そういう珍しい科目がたくさんありましたので、楽しみにしておりました」

しかし、すぐに状況が一変します。1944年7月、日本軍の第32軍が校舎や寮を接収し部隊の拠点に。授業はなくなり飛行場の建設や陣地構築に駆り出されるようになりました。

「全島要塞化」を目指した第32軍。動員は小学生にまでおよび、瀬名波さんが携わった中飛行場をはじめとして、地下壕や高射砲陣地など多くの軍事施設が作られていきました。

(瀬名波榮喜さん)
「誰1人、陣地構築に駆り出されて文句を言う人はいなかっただろうと思います。軍隊教育を受けてきておるので、自分自身の命の大切さということはほとんどなかっただろうと思いますね」

【沖縄戦と戦後“2つの後悔”】

翌年の4月1日、アメリカ軍が上陸。上陸地点に近い中飛行場は、その日のうちに占拠されました。

そのとき、いまの名護市の自宅にいた瀬名波さん。やんばるへ避難し生き延びることになります。ただ、学友たちは農林鉄血勤皇隊に動員されるなどして命を失っていきました。

(瀬名波榮喜さん)
「自分が生き長らえたということに対しては、ずっと後ろめたさといいますかね、そういったものは感じますね。彼らは国のためと、あるいは大君のためにということで動員されて、そして散ってしまったと。自分は生き延びたということで、彼らに対して悪かったなという、そういう感じはいたしますね」

戦後、瀬名波さんは新たな後悔の思いを抱えるようになります。中飛行場はアメリカ軍によって拡張され、嘉手納基地として強化されていったのです。

ベトナム戦争では爆撃機などの出撃拠点に。嘉手納基地を飛び立ったB52が大量の爆弾を投下しました。基地の周辺は騒音などの問題に悩まされて続けています。

(瀬名波榮喜さん)
「何かわれわれ、この飛行場をつくったものとして、罪の意識をいくらか感じざるを得ない。間接的にだとはいえ、何か人殺しに、あるいは戦争に加担したような、そういう気持ちを全く抱かないとは言えない」

【若い世代も繰り返すのではないか】

瀬名波さんは今、自身の葛藤を、若い世代も繰り返すことになるのではないかと危惧しています。沖縄を守るためにと考えて作った中飛行場。その記憶が、いまの状況と重なるからです。

沖縄ではここ数年、アメリカ軍に加えて自衛隊の部隊が増強され、基地の島としての強化が進められています。

(瀬名波榮喜さん)
「いま私が一番心配しておりますのは、沖縄戦前夜の様相を呈してるんじゃないかということです。自衛隊がやってきて、そしてシェルターをつくるとか、あるいは軍事基地をつくるとか、ミサイル基地をつくるとかですね。とにかく戦争をいかに回避するかということは国の責任ではありますけれども、やはり地域としても十分に考えておく必要があると思います」

【何が起きた?1944年3月〜5月】

今回1944年、つまり沖縄戦の1年前に着目したのは、ここ数年、沖縄戦体験者の方たちから「いまの世の中は沖縄戦へ向かっていった当時とよく似ている」という話を聞く機会が多くなったことがきっかけです。

1944年の3月から5月にかけての出来事です。

3月22日には沖縄を防衛するため第32軍が編成。4月15日には沖縄本島と伊江島、宮古島に飛行場を作ることが発令されました。当時、日本軍は、空での戦いを中心にアメリカ軍に打撃を与えようとしていました。

一方、海では船舶の被害も起きていました。1944年8月に学童疎開船「対馬丸」が撃沈されたことはよく知られていますが、すでに海上での輸送は非常に危険な状態になっていました。

そして、5月1日には石垣島の大浜国民学校の児童が飛行場の地ならし作業に動員。5月7日には、伊江島で飛行場の起工式が行われました。国民学校というと、いまの小学生にあたる年代で、多くの沖縄県民が基地建設に動員されていました。

今回のテーマは飛行場建設でしたが、これから様々な視点で沖縄戦が始まる前の社会について伝えていきたいと思います。