帰ってきた「琉球の宝」御後絵

79年前の4月、アメリカ軍が沖縄本島に上陸し、地上戦が本格化しました。多くの命や暮らしとともに失われたのが、貴重な文化財です。その一部、琉球王国の王の肖像画「御後絵」などが3月、アメリカから沖縄に返されました。失われた「琉球の宝」の返還の舞台裏を取材しました。
(NHK沖縄 高田和加子)
【琉球国王の遺影“御後絵”】
アメリカ本土の基地で、沖縄に向かう軍用機に積み込まれたのは、
琉球王国時代の文化財22点です。その中には、失われた王の肖像画「御後絵」が含まれていました。一緒に見つかった、タイプライターで打たれた古い手紙にはこんなことが書かれていました。

(一緒に見つかった手紙)
「土産物を探す者たちが、廃墟を荒らし尽くした後だったが、がれきの下には、興味深い美術品がたくさん残っていた」
   
「御後絵」は歴代の王を偲ぶ「遺影」として王府の絵師が描いたものです。沖縄戦で失われ、戦前に撮影された白黒写真が残るのみでした。今回、戦後初めて現存が確認され、その鮮やかな色彩が明らかになりました。見つかったもののうち2枚は13代尚敬、18代尚育とみられています。

(玉城知事)
「沖縄の宝が戻ってきたことは、県民の大きな喜びだ」
   
【沖縄戦で失われる】
御後絵は戦前、首里城の近くにある尚家の邸宅「中城御殿」に保管されていました。しかし、1945年4月、アメリカ軍が沖縄本島に上陸。旧日本軍司令部壕がある那覇市首里にも迫りつつありました。当時、尚家に出入りしていた真栄平房敬さんは、4月上旬、邸宅が砲撃を受け、敷地内の岩陰など7か所に王家の宝物を避難させたと生前、証言していました。

(真栄平さん)
「ちょうど、ここ、これですね、1メートル四方くらい、深さは、私の胸くらいのところに王冠とか“おもろさうし”を隠した」
      
しかし、終戦の年の10月、再び訪れたときには、宝は消えていました。

(真栄平さん)
「ここに見に来たら何もない、空っぽで大変がっかりした。ここは艦砲(射撃)も直撃を受けていない。人が盗まなければ宝物も残っている場所なんですよ」

【琉球王国時代の文化財を取り戻したい】
戦後、驚くべき発見がありました。沖縄最古の歌謡集「おもろさうし」など真栄平さんが隠した宝物の一部がアメリカで見つかり、1953年、沖縄に返還されたのです。「他のものもアメリカに渡っているはずだ」と真栄平さんはすぐにアメリカ側に捜索を依頼しましたが、進展はありませんでした。真栄平さんと共に文化財の返還に取り組んだ人がいます。県の元学芸員、萩尾俊章さん(66)です。2000年に開かれた九州・沖縄サミットをきっかけに、真栄平さんとアメリカを訪れ、FBIやインターポールに捜索への協力を求めました。ただ1人、宝が隠された経緯を知る真栄平さんの証言を詳細に記録。御後絵を含む13点の写真などをFBIに提出し、「盗難美術品リスト」への登録にこぎ着けました。

(萩尾さん)
「御後絵とか王冠はわかりやすいので、そのあたりを先に登録して
個人とかが持っていた場合は、なかなか難しいので、見つけるのは、厳しいだろうなと思いながら、ずっと過ごしていて…」

【御後絵は退役軍人の屋根裏に】
去年、FBIに入った連絡で事態は急展開しました。「盗難品リストに載っているものかも知れない」。遺品整理をしていた退役軍人の家族からでした。駆けつけたFBIの捜査官は、そのときのことをこう振り返ります。

(FBIジェフリー・ケリー特別捜査官)
「ひと目見て、とても価値があり特別なものだと分かった」

御後絵と一緒にあった古い手紙には、御後絵などに関する記述はありませんでしたが、捜査の手がかりになりました。「沖縄から持ち帰った」とか「沖縄最後の王の息子である尚男爵邸の廃墟で拾った」などと書かれていたのです。退役軍人は、沖縄には派兵されておらず、手紙の主ではありませんでした。22点の入手ルートは謎に包まれたままですが、ワシントンDCにあるスミソニアン協会国立アジア美術館は、ほとんどが沖縄のものであると鑑定しました。

(FBIケリー特別捜査官)
「巻かれた絵を広げることで歴史はひもとかれると思う。経年で損傷していたが、依然として芸術作品としてすばらしく、歴史のすばらしい一部だ。沖縄県が今回の返還を喜んでくれていることをうれしく思うし、返還を実現できたことを誇らしく思う」

失われた「琉球の宝」を長年、探し求めてきた萩尾さんは「琉球王国時代に培われた工芸品、歴史的な資料だから、今後、復元や探究を進める上で、現物があるのとないのとでは雲泥の差だ。原資料が戻ってきてほしい。さらに返還の動きが広がっていくといい」と話していました。