沖縄戦79年 少年が直面した家族の死

【少年が直面した家族の死】
沖縄本島中部の読谷村では79年前の沖縄戦で2947人の住民が
亡くなりました。

私(宮城杏里キャスター)の父は読谷村出身で、亡くなった人の中には親戚も含まれています。両親と妹を失った少年だった親戚が、今回、みずからの体験を初めて語ってくれました。

私の父のいとこ、読谷村に住む宮城儀昌さん、87歳です。本島南部で、旧日本軍に召集された父親の信貞さんが、本島北部で母親のフサさんと妹のトモ子さんが亡くなりました。

当時9歳で、記憶は断片的だという儀昌さん、これまで妻以外に家族の最期を話すことはありませんでした。

(宮城儀昌さん)
「自分ももう年だし、今のうちに知っているのをあんたに話しておこうと思ってね」

79年前の昭和20年3月、アメリカ軍の激しい艦砲射撃が始まります。読谷村の海岸は艦艇で埋め尽くされていました。

4月1日の上陸を前に、儀昌さんは母親と姉、幼い2人の妹、それに親戚と本島北部に向かいます。

「トンボ」と呼ばれたアメリカ軍の偵察機に見つかると「艦砲射撃」の標的になるため、みんなで身を隠しました。

(宮城儀昌さん)
「あの今のセスナ機かな、赤い色だったと思う。上をこう回って、歩いたらね、小さい飛行機がね、翌日はこっちに艦砲、飛行機の音が聞こえたら、みんな隠れてしゃがんでね、見えないように」

食べるために必死だったことを覚えています。

(宮城儀昌さん)
「晩は泥棒みたいなもんだが、いもをほじくり人の畑に行って食べた覚えがある。炊いたりしない、生じゃなかったかね」

避難生活は旧日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる6月23日以降も続きました。

栄養不足で日に日に弱っていく当時1歳の妹、トモ子さん。儀昌さんの腕の中で息を引き取りました。7月7日、七夕の日でした。

(宮城儀昌さん)
「お母さんたちが洗濯をやりにいってる時にひきつけみたいなのやって、自分は抱いていたら、そのまま息をやらなくなって、おかあさんに『トモ子動かなくなっているよ』って言ったら、翌日かその日かわからんが、葬りに行った、葬ったところが炭焼き屋の近くの木の根っこの下にわかりやすいように」

1週間後の7月15日の夜、食料も底をつき、体力の限界に達した儀昌さんたちは投降することにしました。しかし、山を下りている時、さらなる悲劇が起こります。

(宮城儀昌さん)
「下りていく時に、自分が(アメリカ軍の)陣地のケーブルというのか、ホースみたいなものじゃなかったかな、足で踏んでしまったから、ピーって(音がして)それから照明弾がポン、ポンあがって機関銃を」

照明弾が打ち上げられ周囲が明るくなると激しい銃撃を受けました。しゃがみこむ自分の近くで、横たわっている母親の姿が脳裏に焼き付いています。

(宮城儀昌さん)
「触ってみたら動かんわけさ、揺すぶっても、その時にいちもくさんに逃げてね、兄さん(親戚)たちに聞いてみたら頭の脳を(撃たれ)、即死状態で。今考えたらあれだが、その時分には泣くあれもなかった」

母親を埋葬する余裕もなく移動を続け、数日後、収容所にたどり着きました。

戦後、親戚に育てられた儀昌さんは中学を卒業したあと、会社員やタクシー運転手として働きました。仕事に励むことで両親を失った悲しみを抑えていたといいます。

本土に復帰後、30代後半になった儀昌さんのもとに国から贈られてきたのは、母親が旧日本軍に協力した「戦闘参加者」と認定されたことを示す賞状。そして、勲章です。

(宮城杏里)
「こういうのが届いてどう思いましたか」
(宮城儀昌さん)
「親は亡くなって寂しいねと思いました」

勲章を見ると、なぜ母親たちは命を落とさなければならなかったのか考えてしまうといいます。

(宮城杏里)
「戦争がなかったらどんな家族だったと思いますか」
(宮城儀昌さん)
「いい家族じゃなかったかね。思いやりのある」

この日、儀昌さんは母親のフサさんと妹のトモ子さんが亡くなった場所を案内してくれました。今はアメリカ軍基地の中にあり、入ることはできません。

2人の遺骨は戦後、掘り起こしました。命日にはここで手を合わせています。

(宮城儀昌さん)
「今から昔の話だが、二度と若い人たちには同じ思いをさせたくない。だから二度と戦争はやってほしくないと、それを自分は祈っています」

【取材後記】
今回、儀昌さんの話を聞いて「戦争が憎い」と率直に感じました。これまで、悲しいこと、つらいことを思い出させてしまうと思って自分の身近な人から戦争体験を聞くことにちゅうちょしていましたが、もっと体験者のことばを聞き記録していきたいと思いました。