留学支援の思い「誇り持ちはばたいて」

沖縄の若者たちにアメリカへの留学の門戸を広げようと、3月2日、県内6つの自治体がワシントン州の大学と協定を交わしました。大学と自治体をつないだのは、沖縄戦でアメリカ軍に持ち去られた「戦利品」を沖縄に返還する活動をしてきた男性です。戦利品の返還と留学支援、異なる活動の原点は1つでした。西銘むつみ記者の報告です。

南城市で行われた調印式。沖縄の若者がアメリカの大学に留学しやすくなるように協定が交わされました。調印したのは大宜味村や伊平屋村など県内6つの市と村で予算面で留学を支援します。協定によって英語検定試験や高校からの推薦状が免除されるなど留学の条件が緩和されました。

ワシントン州立大学の副学長は「協定によって子どもたちがより高い教育レベルに到達すると思う」とあいさつしました。

東村の當山村長は「世界に通用する人材を育てていきたい」と述べました。

自治体と大学とをつないだ喜舎場静夫さん(73歳)です。アメリカに太いパイプを持ち、自身の経験から沖縄の発展には何をおいても人材育成が欠かせないと考えています。

(喜舎場さん)
「アメリカには世界の学者たちが集まっている。そういう人材を沖縄の人とつなぐんですよ」

79年前の沖縄戦でアメリカ軍が戦利品として持ち去った写真や遺品の数々。喜舎場さんが理事長を務めるNPOの「琉米歴史研究会」がアメリカから返還させたものです。140人を超える人たちに届けてきました。さらに琉球王国の貴重な文化財も取り戻し、自治体や公共の施設に引き渡してきました。

喜舎場さんの活動の原動力となっているのは沖縄の運命が決定付けられた1609年の薩摩藩による琉球侵攻と沖縄戦。翻弄されてきた歴史を乗り越え沖縄本来の姿を取り戻したいと考えています。

(喜舎場さん)
「薩摩の侵攻と沖縄の戦争。沖縄の歴史は鎖になっていて一部分が抜けている。私たちはここを埋めている。返還させる理由は沖縄の人に歴史と文化に関心をもってもらい、プライドをもってほしい」。

喜舎場さんが抱くウチナーンチュとしての誇り。それは20代のころから変わりません。英語が堪能だったことなどから当時、沖縄のアメリカ軍の司令部に務めていました。

あるとき、個人的に親しくしていた沖縄のアメリカ軍トップ、4軍調整官にこう質問されました。

(喜舎場さん)
「話によると、あなたは米軍基地で働きながら米軍反対って聞いているけど」。

それに対し、喜舎場さんは「あなたの出身の州にこれだけの基地があったらどうしますか」と聞き返しました。

すると4軍調整官は喜舎場さんのことばを受け止めこう答えたと言います。

(喜舎場さん)
「4軍調整官である私がウチナーンチュだったら、赤旗を持って先頭に立ちますと。デモ行進の赤旗は私が持ちますと」

郷土愛を包み隠さず表し物怖じしない姿勢によって築いていった人脈は、その後の活動にも役立っていくことになります。当時の仲間とのつながりや培った交渉力を生かして戦利品を取り戻していった喜舎場さん。その数は、数千点にのぼります。

留学協定の調印式のあと、喜舎場さんは歓迎会を開催。自治体の職員にもお願いして、琉球舞踊や三線を披露してもらい大学側をもてなしました。みずから歌や踊りに込められた意味を説明して回りました。

世界に誇るすぐれた文化、そして若い世代の力こそが、沖縄の明るい未来を切り開くと信じています。

(喜舎場さん)
「あと50年何もしなかったら50年後には何も変わらない、100年前と。だから、人材育成をやって種が木になり果物ができて、ワッタービケーンではない(私たちだけでいいのではない)。子どもたちは成長して世界にシェア(共有)する。これが私たちの目的です」

現在、この留学協定に参加しているのは6つの市と村ですが、今後、さらに3つの自治体が加わる予定だということです。