沖縄=東京便就航70周年で記念式典 那覇空港

国内の航空会社が、戦後初めて沖縄と東京を結ぶ路線を就航させてから5日で70年となり、那覇空港で記念の式典が行われました。

沖縄と東京の羽田空港を結ぶ路線は、日本航空が70年前の1954年2月5日に就航させました。

日本航空によりますと、当時、那覇空港は工事中だったため、就航から9か月間はアメリカ軍嘉手納基地を使用していたほか、沖縄が本土に復帰するまでは国際線として運航されていたということです。

5日は70周年を記念して那覇空港の旅客ターミナルで式典が開かれ、日本航空の清水新一郎副社長が「きょうまで運航を継続できたことは、多くのお客様に利用していただいたおかげだ。これからも沖縄県の観光、経済の発展と県民の皆様の生活のために貢献していく」とあいさつしました。

そして、羽田空港へ向かう377人の乗客に記念品が手渡されました。

神奈川県の29歳の男性は「きょうはこの便に乗るために来ました」と話していました。

また、神奈川県の80代の男性は「50年前から何回も乗ってきました。人も増えて空港もすごく変わりましたね」と話していました。

【那覇空港の歴史と日本航空就航】

戦後、アメリカの統治下に置かれた沖縄では、飛行場もアメリカ軍の管理下に置かれ、いまの那覇空港も軍の飛行場になっていました。

こうした中、基地を使う形で、当時のパンアメリカン航空が1947年9月から那覇を中心に東京や東南アジアとの路線を運行。

その後、当時のノースウエスト航空や英国航空、カンタス航空なども利用するようになって、民間空港区域の整備が求められるようになり、1952年2月から飛行場北側の現在の貨物ターミナルがある場所の埋め立てが始まりました。

こうした中、日本の航空会社で最初に就航したのが日本航空です。

沖縄と東京の羽田空港を結ぶ路線を70年前の1954年2月5日に就航。民間空港区域の整備の工事が続いていたため、就航して9か月間は、アメリカ軍嘉手納基地で運航していました。

就航した当初は、プロペラのレシプロエンジンが4つある最大58席のダグラスDC6B型機が使われ、週2往復で運航されました。

また、沖縄は日本にとって“外国”だったため、1955年の時刻表では、沖縄と東京を結ぶ便は東京とホノルルやサンフランシスコを結ぶ路線とともに、国際線と記されていて、沖縄を経由して香港まで運航していました。

1972年に本土に復帰した後は沖縄へ観光客を運ぶ便として羽ばたきます。復帰の3か月後にいわゆるジャンボジェット機と呼ばれるボーイング747型機を国内線として初めて就航させました。

その後、便数も増加し、年間の搭乗者数は1987年度には100万人、2003年度には200万人を超え、2008年度には過去最多の281万人に達しました。昨年度は新型コロナの影響が残っていたものの、240万人あまりが利用。

現在は、1日に13往復が運航していて国内線の中でも3番目に利用者が多い路線になっています。記録が残る1980年以降での利用者数は、およそ7500万人に上るということです。

【日本航空副社長は】

日本航空の清水新一郎副社長は、今後の沖縄の観光や経済との関わり方について、「持続可能な観光をどうやってできるだろうかということを沖縄の皆さんと考えながら提供していきたい。やんばる地区などで、電気自動車を使った観光案内をするなど、自然に優しい観光なども考えている」と述べました。

また、「チャーター便がもっと必要だという声が大きくなれば、国際線を就航させる可能性は探っていきたい。必ずしも遠い将来ではないのではないかと思う」と述べて、将来的に沖縄から国際線の就航を目指すと明かしました。

その上で、「やはり県民の足だというところが大だと思っていますので、路線の充実をしっかりさせていく、より利便性の高いものにしていくことが、県民の皆様に対しての最大の貢献につながると思っています」と話しています。