那覇市の「沖縄ホテル」国の登録有形文化財に 希少な沖縄建築

沖縄を代表する建築家の仲座久雄が設計し、戦後まもない時期の沖縄建築の特徴を残す希少な建物として知られる「沖縄ホテル」が、国の登録有形文化財に登録されることになりました。

新たに国の登録有形文化財になるのは、那覇市大道にある県内で最初の観光ホテル「沖縄ホテル」のうち、レンガ棟、旅館棟、大道門、瓦石垣の4つの建物で、いずれも沖縄を代表する建築家の仲座久雄が設計しました。

仲座は、沖縄戦で街が焦土と化し資材が不足する中、県内でも製造が可能なレンガを使った煉瓦造という手法で学校や公共施設などの設計を手がけました。

今回、登録された4つの建物のうち、レンガ棟は県内で唯一現存する煉瓦造の建物です。

また、旅館棟には仲座が考案した、コンクリートブロックを沖縄の風土に合うよう穴を開けて風通しをよくした「花ブロック」が用いられ、当時の建築技術が随所に見受けられます。

そして、大道門は沖縄戦で失われた守礼門の復元を進めていた仲座が、朱色の柱に赤瓦を乗せて守礼門を模したデザインにしたほか、ホテルを囲む瓦石垣は琉球石灰岩を積み上げた壁の上に琉球赤瓦をふいたものです。

これらは、一体となって沖縄らしい景観を形づくり、復興途上にあった沖縄の人たちに感銘を与えたと伝えられています。

【沖縄ホテルの社長「思い出深い建物」】
沖縄ホテルが登録有形文化財になることについて、創業者の孫にあたる宮里公宜社長は「沖縄を代表する建築家の仲座久雄さんがつくってくれた建物が初めて登録されることがうれしいです。仲座さんに感謝しています」と喜びを語りました。

そのうえで「レンガ棟は小さいころから見ていて思い出深い建物です。沖縄は戦争でほとんどものがなくなってしまい、そこから復興して今の沖縄があるので歴史がすごく詰まっています。宿泊するお客様には、リゾート地としてだけではなく、ほかの都道府県とは違う沖縄の歴史も知っていただけたらと思います」と話していました。

【激動の時代を見つめたホテル】
沖縄ホテルは昭和16年、のちに「沖縄観光の父」と呼ばれる宮里定三によって那覇市の波之上で創業しました。

沖縄で最初の観光ホテルだったことから、三笠宮さまや国内外の要人が宿泊するなど、格式の高さでも知られるようになります。

しかし、太平洋戦争が激しくなると、東条英機総理大臣や日本軍の高官が使用するようになり、昭和20年には日本軍専用の宿泊施設に。

そして、沖縄戦のさなか、アメリカ軍の艦砲射撃を受けて焼失しました。

それから6年後の昭和26年、創業者の宮里は今の那覇市大道で新たな「沖縄ホテル」を開業します。

再開してしばらくの間は、アメリカ軍基地の建設ラッシュを受けて、観光よりも建設工事の関係者たちで客の多くが占められました。

ただ、次第に、沖縄らしい建物のデザインや南国情緒漂う庭園などが知られるようになり、「放浪の天才画家」として知られる山下清や、世界的に有名な版画家、棟方志功、それに人間国宝の陶芸家、濱田庄司など多くの芸術家が宿泊するようになりました。

昭和40年代には沖縄戦で亡くなった兵士の遺族などが墓参団として宿泊。

戦前、戦後の激動の時代を見つめてきました。