沖縄戦から78年「慰霊の日」 証言アーカイブの活用は

沖縄放送局の西銘むつみ記者が沖縄HOTeyeで行った記者解説の内容です。

原アナウンサー)ここからは西銘記者とお伝えします。
ことしに入ってすぐに元学徒の中山さんが亡くなられ、その後、本村さんも他界しました。
この半年を振り返ってどんなことを感じていますか。

西銘記者)取材していると、多くの人がお二人の死を悼む一方で、「わたしたちがしっかり受け継がなくては」という、戦後世代の決意も感じます。特にいま、体験者が残してくれた手記や絵など「証言アーカイブ」の重要性が再認識されているように思います。この78年間でどんな「証言アーカイブ」が蓄積されて、いま、活用状況がどうなっているのか見ていきます。

アメリカ軍が撮影した上陸の様子をいまに伝えるフィルム映像です。
およそ18万人の兵士で上陸したアメリカ軍は後方支援を含めると総勢およそ54万人。
圧倒的な兵力でした。
太平洋戦争で最大規模の上陸作戦が展開された結果、県民の4人に1人が命を落としました。

原アナウンサー)こうしたフィルム、沖縄戦を知る上で欠かすことができない資料、アーカイブになっていますよね。

西銘記者)当初、フィルムは、沖縄の人たちが募金など草の根の運動をしながら、アメリカの公文書館などから買い取ってきました。

そして、記憶を継承する上で最もベースになっているアーカイブが体験者の証言です。

研究者によりますと、証言をし始めたのは、終戦から33年を経た頃。

戦争で亡くなった友人や親類の家を、33回忌の法要で訪れたり向かい入れたりする中で自分の戦争体験を互いに語り始めるようになります。

その証言は県史や市町村史という形で記録されていきました。

沖縄国際大学の吉浜忍元教授は「すべての自治体に市町村史があり、6割以上の市町村で戦争体験に特化した証言集があるのは全国でも例がない」としています。

原アナウンサー)ほかにも体験者が描いた絵ですとか、証言を録音したテープなど、いろいろ、あるんですね。

西銘記者)豊見城市ではいまも証言を映像で撮り続けています。ただ、せっかくのアーカイブ、十分に活用されているとは言えません。

原アナウンサー)もったいない気がしますね。活用の壁になっているのは何ですか?。

西銘記者)1つは「予算」です。
こちらは県が11年前に作成した「沖縄平和学習アーカイブ」
インターネットにアクセスすると沖縄の地図上におよそ100人の顔写真が戦時中を過ごした場所に現れます。
クリックするとそれぞれの証言を動画や文字で見ることができます。

7600万円あまりの予算をかけましたが、維持費が捻出できず一時、配信停止となりました。

ある自治体の担当者は「アーカイブにかける予算は、先んじて削られる傾向にある」と嘆いていました。

そして、こちらは世論調査の結果です。

原アナウンサー)「沖縄戦を後世に伝えていく上で特に力を入れた方がよいと思うことは何か」とたずねたんですね。

西銘記者)はい、複数回答で聞きました。
「体験者の証言を映像や文章で残す」が82%で最も多く、次いで「学校で子どもたちに教える」が75%などとなっています。
最も多い回答は、まさに沖縄の人たちが取り組んできたことで、2番目に多い回答はいま直面している課題そのものです。
学校は沖縄戦の記憶の継承に大きな役割を果たしていますが、忙しい教員たちがアーカイブを探したり選んだりして、平和学習を1から構築するのは簡単ではありません。

原アナウンサー)この課題に取り組み始めたのが、読谷村教育委員会の学芸員、中田耕平さんと、お二人、立場が違いますけどどういった取り組みなんでしょうか。

西銘記者)はい。中田さんは村が持っている写真や証言集などのアーカイブを玉城さんに提供します。
それを活用して玉城さんは先週、豊見城市の中学校で平和学習を実施しました。
証言集の朗読を教員にしてもらうことで、学校と外部のノウハウを持った人が連携するという形です。
教員は玉城さんの平和学習からノウハウを学ぶこともできます。
玉城さんは「貴重な証言や写真を埋もれさせていけない。アーカイブと学校とをつなぐ役割を果たしていきたい」と話していました。
証言アーカイブは「二度と戦争を繰り返してはならない」という体験者の思いそのものです。
そして、つらい記憶をアーカイブに残してくれたのは、「わたしたちがいなくなっても次の世代にその記憶をつないで欲しい」という願いからです。
わたしたちの財産である証言アーカイブを活用することこそが、戦争の記憶の風化に歯止めをかけることになるのだと思います。