沖縄 慰霊の日 平和の礎を訪れた人たちが語ったことは

沖縄 慰霊の日 平和の礎を訪れた人たちが語ったことは

慰霊の日の23日、糸満市の平和祈念公園にある平和の礎を訪れた人たちの声です。

秋重優里さん(バスガイド・那覇市・18歳)
「明るい時間にしか来たことがなかったのですが、穏やかでしんみりとした気分になります。いろんな人が命を亡くしているので、きょうはいま幸せに暮らせていることに感謝する日です。自分がこの場所で感じたことをお客さんにも紹介できるようになりたい」

仲村渠さゆりさん(バスガイド研修の講師・読谷村)
「多くの戦争経験者がすでに亡くなり、戦争を経験していない私たちにとっては亡くなっていった方々の思いを伝えるのが精一杯。平和に対して思う日がこの慰霊の日で、犠牲の上にこの沖縄の大地が守られていることを伝えていかないといけない」
   
60代男性(八重瀬町)
「おじとおばの5人が沖縄戦で亡くなったと両親から聞かされ毎年、来ています。亡くなった人たちの上に今の平和があると思っています。台湾の問題など厳しい情勢がありますが、せめて現状を維持してほしい」      

80代女性 
沖縄戦では今の沖縄市から本島北部のやんばる地域に歩いて逃げた。耳の不自由な夫と訪問。
「夫は当時10代だった弟を今の与那原町で亡くしました。後ろから撃たれたと聞いています」
               
84歳男性
「海からの艦砲弾の破片が当たり、姉は目の前で即死でした。いまのウクライナの情勢を見ると当時を思い出してつらい。父は遺骨も見つかっていません」

75歳男性
いまの那覇市宇栄原の家のそばにあった壕で4人の姉など家族7人を亡くす。
「壕から出ようととしたが、出ることを許されず、ガス弾を投げ込まれて亡くなったと聞いている。二度と戦争を起こしてはいけないという思いです」

川満敏子さん(那覇市・59歳)
「おじは戦争に行ったきり遺骨も何も見つかっていない。直接経験はしていないが、戦争は怖いということしか頭にない。平和であってほしい」

柳詰ゆう紀さん(静岡出身 JICA沖縄に勤務)
「沖縄戦のことはしっかりとは知りませんでした。朝から足を運んでいる人の姿を見ると感じるところがあり、来てよかったです。沖縄は平和の思いをつないできたからこそ世界に貢献できるところがあると思うので勉強させてもらいながら生かしていきたい」

88歳男性(豊見城市)
「自分が小学3年生の時に、50代だった父が防衛召集された。本島南部で亡くなったらしいが、どんな苦労があったかわからないし、遺骨も見つかっていない。自分は母たちとやんばるに逃げて、最初は水が飲める川のそばで過ごしたが、アメリカ兵が迫ってきたので山の奥へ奥へと隠れた。優しい父を奪った戦争は二度とやってはいけない」
  
澤岻正喜さん(那覇市・84歳)
「首里の壕の中におじいちゃん、おばあちゃん、おばさん、母、兄、僕、弟と妹がいたが、その前に砲弾が落ちて母と3歳の妹がほぼ即死、おばさんが即死でした。全くけがが無かったのは僕と祖母だけで、その後、祖母も含め、自分以外は全員亡くなり、孤児になりました。今でもその時のことははっきり覚えていて、狭いところに恐怖を感じ、木が茂ったところでは戦争を思い出します。日本はいま間違いなく戦争に向かっていると感じます。みんなが意識を持てば防げるかもしれないが、目の前の生活で忙しく、関心を持てていないのではないか」      

40代女性
義理の父親(82)が戦前、家族で渡った中国で母親と弟2人を亡くして残留孤児に。沖縄戦でおじを亡くす。小学4年生の息子と3世代で平和の礎を訪問。
「父から命がつながって私たち家族が生きているのは奇跡に近いと思う。戦争が教科書に書かれている他人事ではないということを、息子に伝えたい」
      
4年生の男の子(上記女性の息子)
「戦争は一般市民も巻き込むので、やってはいけないと思います」

鉢嶺正子さん(78歳・那覇市)
娘と孫の4人と平和の礎を訪問
「叔母などは壕の中で自決したと聞かされているが、場所など詳しいことは分からない。きょうは『おかげさまで幸せに生きています』と語りかけました。最近、基地ができたりと自衛隊の動きが大きくなっているのが気になっています」
      
鉢嶺さんの孫(7歳)
「亡くなった人には『いつも平和であることに感謝しています』と語りかけました」

前森誠光さん(84歳・八重瀬町)
戦火から逃れる途中、当時2歳と4歳だった弟2人が栄養失調で亡くなる。
「家族で墓の中に隠れていたところ、裏山に爆弾が落ちて目の前に石がばっと落ちて来た瞬間は当時6歳でしたが覚えています。また夜逃げる道中で母に『もう置いてくよ、捨てていくよ』と言われたのも覚えています。母は優しかったはずなのに、戦争は人間が人間でなくなる。(連れてきた孫に)2度と戦争は起こしちゃいけないよ。戦争をしないようにこれから君たちがいろんな活動をして頑張ることが大事」

儀間敦子さん(47歳・宜野湾市)
息子の翔伊くん(6)を連れて、沖縄戦で17歳で命を落とした祖父の妹の名前を探しに初めて平和の礎を訪れた。
「息子が行きたいと言って、先生に行ってみたらどうと学校で言われたみたいで勉強するいい機会かなと思って連れてきた。これまで仏壇には手を合わせていますが、来る機会はなかった。こんなにたくさんの方が亡くなって、本当に、悲惨な戦争だったと思うし、人が人じゃなくなる戦争は2度と起こしてはいけないと思った。悲しい思いをすることが、今後、絶対にないように、いまウクライナで起こっていることも本当に早く終わって欲しいですし、平和な世の中になって欲しい」

饒平名秀さん(91歳)
父親が防衛隊に召集され、伊江島で亡くなる。
「父は防空壕から出て来たときにアメリカ兵に鉄砲で撃たれたと聞いています。ここに来ると父が座っているみたいな感じがします。みんな元気で頑張ってるよと声をかけました。(自身の戦争体験について)隠れていた防空壕のそばの家に爆弾が落ちてバーンという音がして大きな穴があいたのは怖かった」