遺骨納めた「魂魄の塔」遺族などが祈りささげる 糸満市米須

「魂魄の塔」は沖縄戦最後の激戦地の1つ、糸満市の米須に沖縄戦の翌年の昭和21年に県内で初めて建てられた沖縄戦関係の慰霊塔です。

米須地区に収容されていた今の那覇市、当時の真和志村の住民がアメリカ軍の許可を得て、周囲に散乱していたおよそ3万5000人分の遺骨を納めました。

「魂魄の塔」にも朝から遺族などが訪れ、祈りをささげています。

沖縄戦当時の状況を修学旅行生などに説明する平和ガイドをしている糸満市の井出佳代子(62)さんは「今年は特に軍事力強化の道に進み始めていることをすごく意識する中での慰霊の日なので、亡くなった方たちに2度と悲惨なことが起こらないように、私たちが頑張れるように、背中を押してください、守ってくださいということを祈った」と話しました。

また、戦争を知る世代が少なくなる中での記憶の継承について「知ることがすごく大事だが、なかなか教えてくれる人も教えてもらう機会も減っている。受け身ではなく自分から知ろうとすることが大切になっていくと思う」と話していました。

沖縄戦当時、現在の南城市玉城に住んでいて両親を亡くした川平勇(83)さんは「母の遺骨がないのでここに母がいると思って来ている。母の背中に僕はいて助かったが、母は艦砲射撃を受けて亡くなった。母の背中を叩いて泣き叫んだのを覚えていて、その後、米兵に帯を切って母親から離され、大きなトラックに乗せられた。慰霊の日が何であるのかを若い人達が知っていかなきゃいけない。今、きな臭くなっていて、非常に恐ろしい。戦争は起きてほしくない」と話していました。

兄を亡くした浦添市出身の68才の男性は「1才の時に亡くなった兄がどこで亡くなったのかわからず、ここに納骨したと父から聞いている。母がおんぶをしていたが、兄に弾があたり、母は助かった。兄が居なかったら僕も孫もいなかったのでありがとうという気持ちだ」と話していました。

また、一緒に来ていた孫は「戦争で亡くなった人もいるけど、生き残った人もいるから自分達は生まれたんだなと思いました。戦争が起きたら世の中の人が亡くなって次の世代も生まれなくなるから戦争はだめだと思う」と話していました。

「魂魄の塔」を孫と訪れた北中城村出身の安里正一さん(78)は「おばあちゃんと叔母が艦砲射撃を受けて亡くなったが、遺骨が見つかっていない。沢山の方が亡くなり、おばあちゃんや叔母だけでなく、ここにはお世話になった人達も沢山いるんだろうなと思う」と話していました。

一緒に来ていた小学校6年生の孫は「戦争があったから、平和にしないといけないとおじいちゃんから聞いている。まだ戦争のある国もあるけど、一つでも戦争が無くなるように祈った」と話していました。

「魂魄の塔」に沖縄戦で亡くなった兄の写真を持参して祈りを捧げていた名護市の真城玄信さん(90)は「兄2人を亡くした。上の兄はこの近くで戦っていて、アメリカ兵に撃たれた。2番目の兄は死因がわからないが、6月23日、牛島満司令官が亡くなった日に亡くなったと聞いている」と話しました。

娘や孫と「魂魄の塔」を訪れていた南城市出身の平清治さん(80)は「父親は22才の時に亡くなった。兵隊に行ってどこで亡くなったのかはわからない。当時生まれて数か月だった弟を兵舎にいた父に見せに行って、その後亡くなった。当時私は2歳なので終戦直後の配給の記憶しかないが、戦争は人間が人間でなくなる。ミサイルなどあるが、戦争を起こさないでほしい」と話していました。