奈良 藤原道長が吉野山に納めた自筆の経典 新たに国宝に

平安時代の権力者、藤原道長が、奈良の吉野山に納めた自筆の経典が新たに国宝に指定されることになりました。

15日に開かれた文化庁の文化審議会は、国宝6件と重要文化財36件の指定などを盛山文部科学大臣に答申しました。
このうち、吉野町の金峯山寺と金峯神社が所有する「金峯山経塚出土紺紙金字経(きんぷせんきょうづかしゅつどこんしきんじきょう)」は、平安時代の権力者、藤原道長と道長のひ孫にあたる師通が、みずからが写経したとされる合わせて23巻の経典です。
経典は大小およそ280枚の紙に分かれた状態で、大きなものでは長さ50センチ余りあり、紺色の紙に金色の文字で書かれているのが特徴で、保存状態もよく、文化史研究上、非常に貴重だとされました。
道長が書き記した経典は、今から1000年余り前、道長が金峯山、いまの吉野山や山上ヶ岳を訪れた際、山頂に納めたとされています。
一部はすでに博物館などで保管されていますが、今回指定されるものの多くは、7年前に金峯山寺の本坊から見つかったということです。
経典を見つけた金峯山寺の五條良知 管領は、「すごいものが出てきたと思いました。道長の経典がたくさん出てきたのは寺でしっかり預かってきたことのあかしだと思います。国宝になるということで、これからも責任を持って次世代に伝えたい」と話しています。
このほか、県内では、▼斑鳩町の法隆寺の玉虫厨子(たまむしのずし)に安置されている飛鳥時代の金銅製の観音菩薩像(かんのんぼさつぞう)と、▼桜井市のホケノ山古墳で見つかった青銅製の鏡ややじりなどが国の重要文化財に指定されることになりました。

【道長が自筆の経典を納めた意図は】
藤原道長がみずから書いた日記、「御堂関白記」などには、少なくとも3回、金峯山に参る計画をしたと記されています。
▼1回目は道長が政権の座についた3年後の長徳4年、998年。
▼2回目が実際に山に登った寛弘4年、1007年とされています。
それぞれの年に自ら書き写した経典が、今回、国宝に指定される経典にあたるということです。
また、経典が入っていたとされる金銅製の筒には道長の名前が記されているほか、寛弘4年、1007年に金峯山の山頂に納めたと記されています。
大河ドラマ「光る君」の時代考証を担当し、平安時代に詳しい国際日本文化研究センターの倉本一宏教授は、道長が写した経典の文字は一字一句丁寧に書かれているとしています。
そのうえで、▼長徳4年の経典は道長が政権の座についたお礼や病気がちの体を治したいという思いのほか、▼長女が無事に天皇家に入ることなどを祈って書き写したのではないかと考えられるとしています。
倉本教授は、「未来永劫(えいごう)、自分の権力が続くようにということを考え始めた象徴のひとつがこのお経だったのではないか。当時の権力者が直接書いたものがそのまま残っているというのはすごいことだ」と話しています。