富雄丸山古墳の木製ひつぎ “大部分が当時の形のまま残る”

奈良市の富雄丸山古墳で古代の東アジアで最も長いとされる鉄の剣などとともに見つかっていた木製のひつぎは、大部分が当時の形のまま残っていたことが奈良市教育委員会の調査でわかりました。
ひつぎからは金属探知機の反応もあり、埋葬された人物を解明する手がかりが見つかる可能性もあると期待されています。

4世紀後半に造られたとされる奈良市の富雄丸山古墳では、昨年度、奈良市教育委員会などが行った発掘調査で、▼波打ったような形をした「蛇行剣」と呼ばれる古代の東アジアで最も長いとされる鉄の剣や、▼盾の形をした国内最大級の青銅製の鏡などが見つかっています。
この時の調査では、木製のひつぎも見つかっていて、奈良市教育委員会はいったん埋め戻したうえで、今回、再び掘り出して詳しく調査しました。
ひつぎは、1本の丸太をくりぬいた「割竹形木棺」と呼ばれるもので、▼幅はおよそ70センチ、▼長さが5メートル余りあります。
ふたと本体に分かれていて、このうち、本体は、▽内側に、埋葬された人物と副葬品を納める場所を分けたとみられる仕切り板が設けられていたほか、▽外側に縄をかけたとみられる「突起」が残るなど、大部分が当時の形のまま残っていました。
ひつぎの一部からは金属探知機の反応があったということです。
市の教育委員会は7日から土を取り除いて内部を調べることにしています。
発掘を指揮する奈良市埋蔵文化財調査センターの鐘方正樹 所長は「ひつぎ全体が非常によく残っていたことで、従来残っていないような副葬品が出てくる可能性もあるのではないか。金属反応があるということは、鉄器、青銅器が入っている可能性もある。古墳の被葬者像なども明らかにできるのではないか」と話しています。

【富雄丸山古墳とは】
富雄丸山古墳は、古墳時代前期の4世紀後半に造られたとされる大型の円墳です。
奈良市の中心部から西におよそ6キロ離れた矢田丘陵にあり、昭和47年に奈良県が初めて行った調査では、頂上の部分から埋葬施設や副葬品などが見つかっています。
さらに、平成29年に奈良市がレーザーを使って詳細な測量を行った結果、当時、考えられていたより20メートル余り大きく、直径がおよそ110メートルと判明し、国内最大の円墳とわかりました。
3段構造の表面は石に覆われ、盛り土を囲むように埴輪が置かれていたと考えられています。
埋葬施設は古墳の頂上付近のほか、北東に四角く突き出た「造り出し」と呼ばれる部分にも確認されていて、昨年度(令和4年度)の調査では、この「造り出し」の部分から▼波打つような形をした「蛇行剣」と呼ばれる古代の東アジアで最も長いとされる鉄製の剣や、▼盾の形をした国内最大級の青銅製の鏡などが見つかりました。
剣や鏡とともに見つかった木製のひつぎは、いったん埋め戻されましたが、去年(令和5年)12月から再度掘り出して調査が進められています。

【専門家“被葬者の解明に期待”】
木製のひつぎの大部分が当時の形のまま残っていたことについて、考古学が専門の大阪大学の福永伸哉 教授は、「古墳時代の木棺の大部分が残っているのは国内でも数例しかない。今回のひつぎの埋葬方法は非常に丁寧なもので、地位の高い人物が葬られている可能性もある。通常は腐ってしまう繊維製品や漆製品、人の骨や歯といったものが今後の調査で見つかる可能性があり、被葬者の性別や社会的地位の解明につながるのではないか。富雄丸山古墳の調査は想像以上の成果が次々に出てきて、研究者の予断を許さない魅力がある」と期待を寄せていました。

【木棺はなぜ残ったのか】
木製のひつぎが1600年もの長い期間、腐って失われなかったのはなぜなのか、専門家は古墳の内部で木材の腐食を抑える特殊な環境が保たれていたためではないかとみています。
富雄丸山古墳で木製のひつぎが見つかった場所は盗掘を受けておらず、周りは厚い粘土で覆われていました。
木棺が失われなかった理由について、保存科学が専門の奈良大学の今津節生 学長は、▼周りが粘土で覆われていたことで、缶詰のなかのように密閉されて酸素が欠乏し、微生物の活動が抑えられた可能性や、▼ひつぎと一緒に納められていた青銅製の鏡から銅が溶け出し、殺菌効果が得られた可能性などが考えられるとしています。
今津学長は「古墳に納められた木棺は腐って失われることが多く、そのままの形で見つかるのは極めて珍しい。同じように腐りやすい木製の刀の『さや』や布などの副葬品が見つかる可能性もある。『古墳時代のタイムカプセル』とも言えるひつぎの中にどんな物が入っているのか、今後の調査が楽しみだ」と話していました。