飛鳥宮跡で塀の跡見つかる 最初の宮殿「飛鳥岡本宮」の遺構か

明日香村で、7世紀後半につくられた天武天皇や持統天皇の宮殿跡よりさらに古い時代の塀の跡が見つかりました。
研究者は、宮殿があった場所に最初につくられた「飛鳥岡本宮(あすかおかもとのみや)」の塀の可能性が高いと注目しています。

塀の跡は、7世紀後半につくられた天武天皇や持統天皇の都の跡がある、明日香村の飛鳥宮跡で見つかりました。
県立橿原考古学研究所が、天皇の住まいがあった「内郭」と呼ばれる区域で発掘調査を行ったところ、長さおよそ35メートルの塀の跡が見つかりました。
この塀の跡は、天武天皇や持統天皇の時代に東西南北を軸に建てられた建物や塀などの跡とは異なり、北東から南西の方向に建てられたとみられ、さらに古い時代のものと考えられるということです。
この場所では少なくとも3度、天皇の宮殿が設けられたと考えられていて、多くの研究者は、今回見つかったのは7世紀前半に最初に置かれた舒明天皇の「飛鳥岡本宮」の塀だった可能性が高いとしています。
「飛鳥岡本宮」に関する遺構が見つかるのは極めて珍しいということで、飛鳥時代の歴史や遺跡に詳しい東京学芸大学の木下正史 名誉教授は「これまではっきりしていなかった舒明天皇の宮殿の一角を区切る非常に立派な塀だったのではないか。宮殿の広がりを考えるうえで、重要な成果だ」としています。
今回の調査成果について、今月25日と26日、現地で説明会が行われます。

【飛鳥岡本宮とは】
「飛鳥岡本宮」は日本で初めての女帝、推古天皇の後に即位した舒明天皇の宮殿といわれています。
古代の歴史書「日本書紀」では、西暦630年に舒明天皇が「飛鳥岡」のほとりに王宮を移し、「岡本宮」と呼ばれたという記述があります。
宮殿は、その6年後に火災で焼失したとも記されていますが、ほかに記述がないこともあり、どのような宮殿だったのかよくわかっていません。
飛鳥宮跡では、舒明天皇の後に即位した天武・持統天皇の「飛鳥浄御原宮」や皇極天皇の「飛鳥板蓋宮」などの宮殿の跡が見つかっていて、それらの遺溝を保護するため、さらに古い時代の地層の発掘調査を進めることができませんでした。
このため「飛鳥岡本宮」の時代とみられる建物の跡などが見つかるのは極めて珍しいということです。
飛鳥地方の遺跡に詳しい奈良大学の相原嘉之 准教授は「飛鳥宮跡ではおよそ60年にわたって、発掘調査が行われているが、今回のように昔掘った場所でも最新の技術で再調査を行えば、新たな発見が期待できるのではないか」と話しています。