ALS嘱託殺人事件医師“願いかなえるため” 弁護士無罪主張

5年前(2019年)、難病のALSを患う京都市の女性を本人からの依頼で殺害したとして嘱託殺人などの罪に問われている45歳の医師の初公判が開かれ、医師は「女性の願いをかなえるために行った」と述べ、起訴された内容を認めました。
被告の弁護士は、「依頼を実現するための行為を処罰することは、自己決定権を定める憲法に違反する」などとして無罪を主張しました。

医師の大久保愉一被告(45)は5年前の令和元年、元医師の山本直樹被告(46)とともに、全身の筋肉が徐々に動かなくなる難病のALSを患っていた京都市の林優里さん(当時51)から依頼を受け、薬物を投与して殺害したとして嘱託殺人などの罪に問われています。
事件を主導したとされる大久保医師の裁判員裁判が11日から京都地方裁判所で始まり、医師は起訴された内容を認めたうえで「林さんの願いをかなえるために行ったことだ」と述べました。
医師の弁護士は、「林さんの依頼を実現するための行為を処罰することは、自己決定権を定める憲法に違反する」などとして無罪を主張しました。
続いて検察は、冒頭陳述で、「大久保医師は、林さんのSNSの投稿に対し、『安楽死させることができる』と返信し、その後、SNSのメッセージで林さんに薬物を投与する計画を告げた」などと事件の経緯を説明しました。
そのうえで「林さんは死期が間近に迫った状態ではなかった。大久保医師は130万円の報酬を振り込ませ詳しい検査などもせずに短時間で殺害し、正当な行為に当たるはずがない」などと主張しました。
これに対し、医師の弁護士は、「林さんはALSの末期で、眼球やまぶたしか動かせない寝たきりの状態で、死にたいと考えていた。その願いをかなえた大久保医師を処罰することは、林さんが『望まない生』を国家によって強いられる結果になる」と主張しました。
また、大久保医師は山本被告とともに、13年前(2011年)に山本被告の父親を殺害した罪にも問われていて、「やっていません」と述べ、起訴された内容を否認しました。
一方、山本被告は林さんに対する嘱託殺人の罪で懲役2年6か月、父親を殺害した罪で懲役13年の判決がすでに言い渡されていて、いずれも控訴しています。
判決は、ことし3月5日に言い渡される予定です。

【遺族“罪逃れるための詭弁”】
被告の無罪主張を受けて、林優里さんの83歳の父親は、NHKの取材に対し、「『娘の願いをかなえるため』という被告の主張は、みずからの罪を逃れるための詭弁(きべん)に聞こえる。娘は生前、東北までALSの治験に行ったり、さまざまな健康食品を試したりしていて、生きたいという気持ちが確かにあった。SNS上の『死にたい』という書き込みだけが本心だったかのように決めつけないでほしい」と話しました。
また、11日の裁判では、被告が涙を流す場面もありましたが、これについて父親は、「泣いた理由はわからないが、法廷で泣くぐらいなら、なぜ娘に手を下すときにあわれみの気持ちがわかなかったのかと思う。被告は娘を利用してみずからの願望をかなえた殺人鬼にしか思えず、許せない」と話していました。

【日本ALS協会 恩田会長コメント】
今回の裁判について、ALS患者で、日本ALS協会の恩田聖敬会長は、「『死にたい』という言葉はSOS、つまり『生きたい』の裏返しだと思います。ALSに限らず、命を絶ちたいと思う瞬間は人間ならあるかもしれません。しかし、生きたいと死にたいは振り子のような関係であり、常に揺れ動いています。被告には、医師として被害者の心情をどう捉えていたか聞きたいです。医師の役割は振り子を生きたい側に傾ける、寄り添う姿勢だと思います。具体的には日常生活のQOLの改善です。安楽死の議論以前に、ALSを取り巻く療養環境をいちから見直すべきだと思います。療養環境にはあまりにも個人差や地域間格差があるのが現状の実態です。命に優劣はなく、命そのものの価値を改めて日本社会が考える機会であってほしいと思います」とコメントしています。

【鳥取大学の安藤准教授は】
生命倫理が専門の鳥取大学医学部の安藤泰至 准教授は、被告の無罪主張については、個人の自己決定権で医師の行為を正当化するというのは、そもそも診察や診療をしていない被告にはあてはまらないのではないかと指摘しています。
そのうえで、ALSは全身の神経が衰え、死期が迫る以前の段階で日常生活を送ることが難しくなるのが特徴で、その精神的なストレスが死にたいという思いに至る場合があるとして、「死にたいという思いを受け止めるということと、死ぬのを手助けすることは全然違う。つらい気持ちを受け止めてもらったときに、それが生きていく力になることもある」と周囲が患者を支える体制をどう作るかが重要だと指摘しています。
そして、ALS患者の中には、人工呼吸器をつけて24時間体制で介護されながら社会的に活躍している人や、死期が近い病気であっても今が一番幸せだと話す人がいると紹介し、「きょう1日がつらくても生き延びることが大事。人によってまったくそれまでの考え方と違う価値観を持ち始める人もいる。死んでしまったらそこで終わりだが、生きていれば何かある可能性がある」と訴えました。

【同志社女子大学の谷教授は】
「有罪なら憲法違反だ」とする弁護側の主張について、法律に詳しい同志社女子大学の谷直之 教授は、憲法では、個人の幸福を追求する権利が、立法その他の国政のなかでも最大の尊重を必要とする非常に強い文言で保護され、基本的人権のなかでも非常に大事なものとして位置づけられていると指摘したうえで、「被害者が幸福を追求するために死のタイミングや対応を自己決定することを望み、今回の嘱託に応じたことに一定の理解を求めたと考えられる」としました。
谷教授によりますと、海外では、日本の憲法が保障する幸福追求権のように、本人が難病などで、真剣に死ぬことを望んでいるときに、それを妨害することは権利の行使の妨害になるという考え方のもと、厳格な要件を定めたうえで死ぬことを認める法律の整備が始まっている国もあるということです。
そのうえで谷教授は、「現代の医学で治せない病気で苦痛を伴っている患者がいるのは事実で、これだったらもう生きていたくない、死ぬことが幸福ではないが、いまの不幸から抜け出したいと考える患者がいるのも事実だと思う。そういった声にどう応えていくかというのは社会として大事なことだ」と話しています。

【亡くなった林優里さんとは】
家族などによりますと、林優里さん(当時51)は京都市出身で、市内の大学を卒業したあと東京のデパートで働きましたが、アメリカの大学に留学して建築を学び、帰国後は東京の設計会社に勤めていたということです。
活発な性格で、勉強や仕事に積極的に取り組んでいましたが、40代のころ、足に違和感を感じて病院を受診したところALSと診断されます。
その後、仕事を辞めて京都市内に戻り、ヘルパーの支援を受けてマンションで1人暮らしを始めました。
はじめのころは車いすに乗って外出することもありましたが、徐々に全身の筋肉が動かなくなり、亡くなる前は視線を使ってパソコンで文字を入力するなどして意思の疎通を図っていたということです。
専門職など30人ほどの支援チームによる24時間体制の在宅介護を受けていましたが、7年ほどの闘病生活のあと、5年前の11月に51歳で亡くなりました。
SNSの自己紹介欄には「自らの生と死の在り方を自らで選択する権利を求める」と書かれていて、症状が進むなか、亡くなる2か月前には「屈辱的で惨めな毎日がずっと続く。ひとときも耐えられない。安楽死させてください」などと投稿していました。

【大久保被告とは】
弁護側の冒頭陳述によりますと、大久保被告は、青森県の弘前大学医学部を卒業後、研修医を経て、厚生労働省の医系技官になりました。
6年勤務したあと退職し、東北大学医学部法医学分野の助教となります。
東北大学を辞めてからは複数の病院に勤務し、2018年に地域でクリニックを開業しています。
一方、検察は冒頭陳述で、大久保被告が医療に見せかけて高齢者・障害者を殺害することに多大な関心を持ち、そのためのマニュアルなどを執筆していたと指摘しています。
そのうえで、その実践として医師仲間である山本被告とともに医療知識を悪用して犯罪を繰り返していたと主張しています。

【事件のいきさつは】
林さんは、自身のブログやSNSで病気のつらさや孤独な思いを訴え、「死なせてほしい」と繰り返し投稿したあと、5年前、京都市の自宅で容体が急変し、搬送先の病院で亡くなりました。
病院で詳しく調べた結果、体内からはふだん服用していない薬物が見つかったため、警察は経緯を慎重に捜査していました。
その結果、林さんはSNSを通じてみずからの殺害を依頼していたことが分かり、翌年(2020年・令和2年)、大久保被告と山本被告の2人が、薬物を投与して林さんを殺害したとして、嘱託殺人の疑いで逮捕、起訴されました。
先行して行われた山本被告の裁判では、林さんはSNSで症状などを伝えるメッセージを送ってから大久保被告と連絡を取り合うようになり、およそ1か月後にはヘルパーに依頼して大久保被告が指示した山本被告名義の銀行口座に現金130万円を振り込んでいたことも明らかになりました。
事件をめぐってはALS患者の介護だけではなく、精神的なサポートの必要性が大きな課題として浮き彫りになりました。