ダム建設をめぐる五木村の歴史

ダム建設をめぐる五木村の歴史

五木村は、川辺川ダムの建設計画により、村の中心部の移転を余儀なくされた歴史があります。

川辺川ダムの建設計画は、球磨川の流域で昭和38年から3年連続で起きた水害を受けて治水対策として持ち上がりました。

昭和41年に国が計画を発表し、ダムで中心部が沈むことになった五木村では、村民の反対運動が起こり、裁判にまで発展しましたが、平成8年、村はダムの建設に合意し、ほとんどの住民が高台に移転しました。

一方、その後も流域で反対運動が広がったことなどを受け、平成20年に当選した蒲島知事は「ダムによらない治水対策を追求すべきだ」として、川辺川ダムの建設計画の白紙撤回を表明しました。

その後、ダムによらない治水対策の本格的な検討が始まり、川幅の拡大や川底の掘削、それに洪水の際、一時的に水をためる遊水池の整備など複数の対策を組み合わせる方法が検討されました。

しかし、工期や費用の面から実現可能性が疑問視され、抜本的な対策が講じられないまま、令和2年7月の記録的な豪雨により、球磨川は再び氾濫。

流域に大きな被害が出たことを受け、蒲島知事が方針を転換し、環境に配慮した流水型ダムを川辺川に建設することを国に求める考えを表明しました。

流水型ダムでも、五木村は貯水時に一部が水没すると想定されており、村は、建設の賛否について判断を示してこなかった一方、国や県に対し、振興に向けた要望書を提出し、「持続的な発展に必要な地域振興の取り組みを県、村と連携して行う」などとする回答を国から得ていました。

五木村の木下丈二村長は、今月12日の県庁での報道陣の取材に対し、「新たなスタートラインに立つときが来たと判断している」と述べ、21日の村民集会でダムを受け入れるか、表明する考えを示していました。