消えた父 忘れられない2月27日

奄美大島には、長年にわたって国の誤った政策に基づいて、ハンセン病の元患者を隔離してきた、国立ハンセン病療養所の奄美和光園があります。
その和光園で父親が40年あまりにわたって過ごした男性にとって、きょうは「忘れることができない日」だと言います。
過ちを繰り返さないためにどうすれば良いか。
考え続けている男性の思いを聞きました。
(NHK奄美支局記者庭本小季)

【いなくなった父】
“縁側でげたを作っていた父が消へた。
昭和22年2月27日である”

こうした書き出しで始まる手記。

「うちの家族にしたら最悪の日ですよね」。
こう話すのは、奄美市に暮らす赤塚興一さんです。毎年2月27日は忘れることができない日だといいます。

赤塚さんの父親、新藏さん(享年83)は、80年あまり前、34歳の時にハンセン病と診断されました。

その6年後の昭和22年2月27日。強制的に療養所に隔離されました。父親がいなくなったその日、赤塚さんは小学2年生でした。

(赤塚興一さん)。
「警察官と区長さんと職員保健所の職員が来てから連れていったよという話をうちの母親が教えてくれた。なぜって気持ちしかなかった」。

【国の誤った政策差別を助長】
菌の感染によって皮膚や神経などが侵される病気、ハンセン病。
国は、平成8年まで長年にわたって、法律で患者を強制的に隔離してきました。

隔離政策は、治療法が確立され、感染力が極めて弱いことが明らかになった後も続きます。

このため「感染力が強い」という間違った考え方が広まり、元患者たちは差別や偏見に苦しんできました。

全国各地に作られた療養所のうちのひとつが、奄美和光園。

昭和33年には最も多い340人以上が園での生活を余儀なくされ、赤塚さんの父親、新藏さんも83歳で亡くなるまでの40年あまりを園で過ごしました。

(赤塚さん)。
「住んでいた部屋は8畳くらいあったのかな。本人は、よくラジオを聞いていて、いろんなニュースや政治的な事に結構詳しかったですよね」。

社会から分断されたハンセン病の当事者だけでなく、家族に対しても偏見のまなざしが向けられました。

(赤塚さん)。
「(私と)遊ぶと自分も病気になるかも分からないからっていうのでみんな離れていくんです。村八分でしたね」。

【一番近くで父を差別した過去】
赤塚さんには和光園で忘れられない出来事があります。
中学時代、友人たちと慰問に訪れた時のこと。
広場で、入所者と野球をしましたが、周りの友人に父の存在を隠してしまったといいます。

(赤塚さん)。
「うちの親父が後ろにいるわけじゃないですか。“もうどこかに行ってくれよ”ということばが頭に。まともに野球をしているような感じじゃなかった。そのころから親に対する嫌悪感を持っていたんですよ。みんなに差別されるんじゃないかっていう気持ちがありました」。

それでも父親の新藏さんは家族との交流をあきらめませんでした。人目をしのぶように、深夜や早朝、園を抜け出して自宅に戻ってくることがありました。

しかし赤塚さんは、心から喜ぶことができなかったといいます。

(赤塚さん)。
「“もう早く(園に)帰れよ”というひと言よけいなことを言ってしまった。本当に親に対する申し訳ないことを言ってしまった。自分の親でありながら親に対する蔑視というかこれが一番悔やまれますよね」。

社会から差別された父を、息子としても差別してしまった過去。

後悔の気持ちは父が亡くなった後も消えることはありませんでした。

【過ちの記憶書き残す】
差別の連鎖を繰り返してはいけない。

父との過去に向き合いながら記憶を書きとどめ、1冊の本にまとめたいとしています。

(赤塚さん)。
「結局自分がいわば無知だった。これは反省のひとつですよね。無知だったから余計ああいう言葉が出てきた。親に“帰れ”と」

手記は父の強制隔離が始まった2月27日の出来事から始まります。

(赤塚さん)。
「長い間の歴史ハンセン病が法律で縛られていたというのがあって、多くの人たちが誤ったことをやってきました。二度と誤ったことがないようにどうお伝えしていくかということ。それはみんなが知るということなんですよね。知らないから誤ったことをうのみにしてしまってるんじゃないかな」。

【後説】。
赤塚さんの父親が暮らした奄美和光園では現在、11人の元患者が入所し、平均年齢は87.6歳と高齢です。

園では8年前に語り部の男性が亡くなって以降、当事者による記憶の継承が難しい状態が続いています。

赤塚さんは、過去の過ちを繰り返さないために「正しく知ることを大切にする世の中であってほしい」と繰り返し話していて執筆を進めている手記は早ければ6月にも完成させたいとしています。