鹿児島の特攻基地 川端康成や山岡荘八“記録員”の作家たちは

太平洋戦争末期、鹿児島には多くの特攻基地がありました。そこに兵士だけでなく作家たちが記録員として派遣されていたことをご存じでしょうか。特攻との関わりは、作家たちにどのような影響を及ぼしたのか。その後の人生をたどりました。

(鹿児島局記者 柳沢直己)


【特攻隊員を悼みつづけた山岡荘八】

鹿屋市の林にひっそりとたたずむ石碑。「桜花」という特攻機で戦死した、特攻隊員を悼んで建てられたものです。

刻まれている文字は、作家の山岡荘八の手によるものです。1945年の春に鹿屋の基地へ記録員として派遣された山岡。滞在中、親しく交流した特攻隊員は相次いで戦死。戦後、慰霊碑の建立などに尽力し、特攻隊員を悼む活動を続けました。

時を同じくして、鹿屋の基地に派遣されていたのが、後にノーベル文学賞を受賞する川端康成です。川端は特攻とどのように向き合っていたのか。

【川端康成は特攻とどう向き合った】

ことし2月、作家の多胡吉郎さんは、川端と特攻の関係について書いた本を出版しました。多胡さんは近現代の人物をテーマに執筆活動を行っています。今回の本は、川端の鹿屋の基地での経験をたんねんに掘り下げようと試みたものです。

(多胡吉郎さん)
「川端さんは、そうやすやすと心を開いて何でもかんでもお話しする人ではありませんでした。いわゆるいろんなとこに出ていってペラペラとしゃべるとか、今でいうテレビ等で非常に持てはやされる作家のスタイルってあるじゃないですか。そういうところとはかなり違うところにいた方ですから」

戦後、川端は鹿屋で見聞きしたことを表立って語ることはほとんどありませんでした。「特攻隊員とは話していない」とさえ、答えていたといいます。

多胡さんは、実際に鹿屋を訪れて川端の足跡をたどりました。その調査は、川端がいたころ、鹿屋から出撃した特攻隊員にまで及びました。

その結果、川端のその後の人生に鹿屋での経験が及ぼした影響が見えてきたといいます。

(多胡吉郎さん)
「彼は文学世界の中では、やはり常に忘れていないわけですよ。己の文学世界の中では特攻体験というものを時々、意味の深い形で再生させていく」

【出撃前夜の特攻隊員のことば】

終戦のよくとしに発表した短編小説『生命の樹』。主人公の女性が戦争を思い返す物語の中で、特攻隊員との交流が描かれます。

れんげ草が咲き誇る主人公の故郷。鹿屋の基地の周りも、美しいれんげ草で知られていました。

主人公に出撃前夜の特攻隊員が告げた「どうもおかしいね。死ぬような気が、なにもせんじゃないか」ということばも、川端が鹿屋で見聞きしたものではないかといいます。

(多胡吉郎さん)
「明日死ぬ身とはとても思えないというようなことは、特攻隊員の書き残した日記であったり遺書であったり、そういう中に実際に出てくることでありますから、そういう言葉や思いは実際に特攻隊員の方から川端が掴んだということは間違いないと思いますね」

川端が滞在中に通っていた食堂は、特攻隊員も利用していました。多胡さんは、特攻隊員の遺書から、そうした場所で川端との交流があった痕跡を見つけました。

(多胡吉郎さん)
「川端さんと色々と話すことができてよかったということを、最後にご家族に宛てた手紙の中でを記しているんですね。川端さんと特攻隊、特に学徒出陣でにわか兵士になった大学生の方たちの間には、そういう深いやり取りまであったということは今回、突き止めることができたと思います」

【遺品を作品に引用した形跡も】

特攻隊員の遺品を作中に引用した形跡も見られるといいます。1950年から51年にかけて発表された『虹いくたび』。特攻隊員が、鹿屋の基地から出撃する1週間ほど前に、「今も、特攻隊が出撃する時には、冷酒を飲ませてくれるんです。その最後の盃を、僕につくらせて下さい」と話して、最後におわんを作りたいと願う場面が描かれます。

このモデルとなったと考えられているのが森丘哲四郎さんです。川端が鹿屋の基地に到着した5日後に出撃した特攻隊員です。

自衛隊鹿屋基地の資料館には、森丘さんの遺品の茶碗がいまも残されています。川端は特攻隊員を悼む思いを、静かに文学作品に込めることで表現してきたのではないかと多胡さんは考えています。

(多胡吉郎さん)
「特攻隊員の命が消えてしまうことに対して、川端さんは何かしら自分の小説の中で、本来その若者が持っていた命の輝き、深いところでの命というものを小説の中でもう一度再生し、しかもそれを何か永遠の命として、作品世界の中にとどめ置く。そういう再生への祈りみたいなものが、鎮魂と再生の祈りというものがあったと思いますね」

【“再生と祈り”出発点は鹿屋に】

1955年の随筆「敗戦のころ」。川端は、思いを吐き出すように、「私は特攻隊員を忘れることができない」と記していました。

(多胡吉郎さん)
「川端さんは、死に囲まれながらも常に、生命の輝きを目指していた、そういう作家だと思うんですね。これは優れた文芸評論家でもあった三島由紀夫が、そのように語ってますけどね。川端文学の本質というのは、生命の賛歌ですと。川端文学の、まさに再生と祈りというものが戦後の川端文学の1つの大きなテーマだとしたら、まさにその出発点はこの鹿屋にあったわけですから、川端文学の1つの故郷、ふるさととして鹿屋、鹿児島を認識していただきたいということがありますね」