日本海中部地震40年 津波で犠牲の小学生に祈り 秋田 男鹿

104人が犠牲となった日本海中部地震から26日で40年です。
この地震による津波で小学生13人が犠牲となった秋田県男鹿市の海岸では、遺族が祈りをささげました。

日本海中部地震は、40年前の昭和58年5月26日に発生したマグニチュード7.7の大地震で、秋田県や青森県、それに北海道であわせて104人が亡くなり、このうち100人が津波の犠牲になりました。

秋田県男鹿市の加茂青砂海岸では、北秋田市の旧合川南小学校の4年生と5年生の児童13人が、遠足の途中で津波の犠牲となりました。

地震から40年となる26日、加茂青砂海岸近くの慰霊碑の前には、遺族や地元の住民などおよそ40人が集まり、線香をあげて手を合わせ、児童たちを供養しました。

そして、地震が発生した正午ごろ、遺族たちは当時、児童たちが昼食をとろうとした海岸におりて、お弁当やお菓子などを供えて海に向かって祈りをささげました。

当時小学5年生だった長女の民子さんを亡くした三浦欽一さん(78)は「長いようで、あっという間に40年たってしまったという感じがします。娘が成仏して穏やかでいてほしいと願って手を合わせましたが、親としてはやはり生きていてほしかったという思いがあります」と話していました。

北秋田市の三浦欽一さん(78)は、当時小学5年生だった長女の民子さん(当時11)を亡くしました。

三浦さんは遠足のバスの運転手を引き受けていて、昼食をとろうと加茂青砂の海岸に立ち寄りました。

海に背を向けて岩の陰に座り、隣にいた民子さんから弁当をもらってまもなく津波にさらわれ、気がつくと海に浮かんでいたということです。

湾の中は、水が渦を巻いていて、三浦さんは流れてきた丸太につかまって助けが来るのを待っていたということです。

三浦さんが民子さんと再会したのは翌日でした。

三浦さんは、「会話もなく突然のことで、あっという間に娘と別れることになってしまいました。娘が元気に育つことが当たり前だと思っていたので、これほど悲しいことはありません」と話していました。

地震から40年がたち、三浦さんは、「あの時津波がくるという認識自体を持っていなかった。少しでも地震や津波に対する認識を多くの人にもってもらえるようになれば、少しでも被害が少なくなっていくのではないか」と話しています。

民子さんを亡くしたあと、三浦さんは、毎日地震の1週間ほど前に撮影した民子さんの遺影に話しかけているといいます。

三浦さんは、「あと何年かでそちらに行くから面倒を見てねと笑いながら言ったり、悲しいときは泣いたりしています。孫たちを見て、民子もこうなっているんだなと思えば心が安らかになります」と話していました。