ダルビッシュ有投手 日米通算200勝達成 地元羽曳野も歓喜

大阪・羽曳野市出身で大リーグ、パドレスのダルビッシュ有投手が、19日に行われたブレーブス戦で7回を投げて無失点で勝ち投手となり、史上3人目となる日米通算200勝を達成しました。

登板予定だった前日(18日)の試合が雨のため中止となり、ダルビッシュ投手はスライド登板で19日のブレーブス戦に臨みました。
日米通算200勝まであと1勝としているダルビッシュ投手は1回、味方が3点を先制したあとマウンドにあがるとツーアウトからツーベースヒットを打たれたものの、後続のバッターは、低めの変化球で空振りの三振を奪い無失点で切り抜けました。
2回と3回もランナーを出しながら要所をしめたダルビッシュ投手は、4回以降、テンポよく投げ込み、6回には2者連続三振を奪うなどして得点を許しませんでした。
味方打線もダルビッシュ投手の好投に応え9点のリードを奪って援護し、7回には、今シーズン最多となる9つ目の三振を奪うなど力強いピッチングを見せて、勝ち投手の権利を持ったままこの回でマウンドを降りました。
球数は99球、打たれたヒットは2本、フォアボールが1つ、三振は9つ奪って7回を無失点に抑えました。
試合は、パドレスが9対1で勝ち、ダルビッシュ投手が今シーズン4勝目をあげました。
この結果、37歳のダルビッシュ投手は大リーグ通算107勝としてプロ野球、日本ハム時代の93勝と合わせて日米通算200勝を達成しました。
日米通算で200勝を達成したのは野茂英雄さん、黒田博樹さんに続いて史上3人目です。

【ダルビッシュ有投手は】
日米通算200勝を達成したダルビッシュ有投手は、「特に実感はないが、きょうでなんとか決めたいという気持ちがあった」とほっとした表情で話していました。
ピッチングについては「登板が1日ずれて体の力はあまりなかったが、変化球はよかったし、カーブも途中からよくなったので、いろいろな球をミックスしながら相手の集中力をそらすことができた」と振り返りました。
20年目の節目で200勝を達成したことについて「プロ野球に入った時から、ファイターズファンの方々、日本全体が自分を優しく育ててくださった。その感謝は忘れずにやっている」としたうえで、今後については「これでほっとできるので、次、201勝目ができるようにあしたから調整したい。なるべくイニングを稼いで中継ぎの投手を休められるよう、監督や首脳陣から信頼してもらえるピッチャーになれるように頑張っていきたい」と話していました。

【大阪 羽曳野 地元の人たちが快挙を喜ぶ】
大リーグ、パドレスのダルビッシュ有投手が日米通算200勝を達成したことについて、出身地の大阪・羽曳野市では、地元の人たちが特産の梅酒で乾杯するなどして快挙を喜びました。
ダルビッシュ投手は、宮城の東北高校に進学する前の中学3年生まで大阪の南東部にある羽曳野市で生まれ育ち、市のスポーツ・観光大使を務めています。
また、2008年からは1勝ごとに市に10万円を寄付していて、児童養護施設の子どもたちへのグローブやユニフォームといった野球用具の贈呈などにあてられているということです。
20日は羽曳野市の観光や特産品を発信する「はびきのビジターセンター」にダルビッシュ投手の母親、郁代さんや地元の人たち20人余りが集まって、パドレスの試合を見守りました。
そして、ダルビッシュ投手が勝利投手になり、日米通算200勝を達成すると、パドレスのチームカラーの黄色などのスティックバルーンをたたいたり、地元特産の梅酒で乾杯したりして、喜びを分かち合っていました。
郁代さんは、地元の人たちに「私のほうが安心しています。これからもよろしくお願いします」とあいさつし、ねぎらいのことばをかけられていました。
応援していた女性は、「地元にずっと貢献してくれて羽曳野の誇りです。これからも活躍し続けてほしいです」と話していました。
地元の駅前では、「郷土のスーパースター大快挙」などと書かれた200枚の号外が配られ、多くの人たちが手に取っていたほか、市役所やビジターセンターには200勝を祝う垂れ幕が掲げられました。

【中学生の時に指導の恩師“これからも手本”】
ダルビッシュ有投手を中学生の時に指導した恩師も「1人のファンとして誇りです。子どもたちの手本であり続けてくれると思います」と教え子の活躍をたたえました。
ダルビッシュ投手は、中学生の時に地元の硬式野球チーム、「羽曳野ボーイズ」でプレーし、エースだった3年生の時には全国大会でベストエイトに進んだほか、15歳以下の日本代表として世界大会で3位に導きました。
当時、監督としてダルビッシュ投手を指導し、現在はチームの会長を務める山田朝生さん(77)によりますと、ダルビッシュ投手は、中学2年生の時に本格的にピッチャーに転向し、3年生では140キロを超える速球を投げていたということです。
山田さんは、ダルビッシュ投手が日米通算200勝を達成したことについて、「1人のファンとして最高にうれしく誇りです。感動ものです。きょうのピッチングは完全に相手のバッターの裏をかいた“芸術”でした」と教え子をたたえました。
ダルビッシュ投手の人柄については、「私はストレート1本で勝負しなさいと教えましたが、隠れていろんな変化球を投げるぐらい当時から研究熱心でした。グラウンドにあいさつに来たときには後輩の中学生たちに惜しげもなく変化球の握りを教えるような面倒見のいい子です」と明かしました。
そして、「あの年になってもピッチングが衰えないのはもちろんですが、ベンチから駆け足でマウンドにいく姿勢を続けてくれていることに最高に感謝しています。とにかくけがにだけ気をつけてくれたら中学や高校で野球をしている子どもたちの手本であり続けてくれると思います」とさらなる活躍を願っていました。

【ダルビッシュ有投手 200勝の軌跡】
ダルビッシュ有投手は大阪・羽曳野市出身の37歳。
プロ野球・日本ハムで1年目の2005年6月15日の広島戦でプロ初先発、初勝利をあげました。
シーズン途中から先発ローテーションに定着して5勝をあげると、2年目の2006年は中心選手としてチームの日本一に貢献し、2007年は12回の完投勝利で15勝をあげて初の沢村賞を受賞しました。
その後も2009年から2年連続で最優秀防御率を獲得するなどリーグを代表する投手として2011年までプロ野球でプレーし、7シーズン通算で93勝をあげました。
大リーグでは移籍したレンジャーズで2012年4月9日のマリナーズ戦に初先発し、6回途中5失点ながら大リーグ初勝利をあげました。
そして、このシーズン、新人の日本選手として最多となる16勝をあげました。
2013年は4月のアストロズ戦であと1人のところで完全試合を逃すなど、力のある速球と多彩な変化球を武器に印象的な活躍を続け、13勝をあげたほか、両リーグ最多の277奪三振で最多奪三振のタイトルを獲得し、サイ・ヤング賞の投票では日本選手で最高順位となる2位に入りました。
2014年はけがによる離脱もありましたが、10勝をあげて大リーグで3年連続となるふた桁勝利をあげました。
2015年は右ひじのトミー・ジョン手術を受けてシーズンを全休しました。
復帰した2016年は7勝にとどまったものの、2017年はシーズン途中にトレードでドジャースに移籍し、合わせて10勝をあげて3年ぶりにふた桁勝利をマーク、この年は自身初のワールドシリーズにも進出しました。
カブスに移籍した2018年は右ひじのけがでほとんど登板できず1勝、2019年は前半戦奮わず6勝と勝ち星を伸ばせませんでした。
新型コロナウイルスの影響で短縮シーズンとなった2020年は7連勝を記録するなど8勝をあげて日本選手初の最多勝を獲得し、サイ・ヤング賞の投票でも再び2位に入りました。
2021年に現在所属するパドレスに移籍し、この年に8勝、2022年には大リーグ1年目以来となる16勝、昨シーズンは8勝をあげて着実に勝利数を積み重ねてきました。
そして、日米通算200勝まで残り「4」として迎えた今シーズンは4月30日のシーズン初勝利から4連勝で一気に節目の記録に到達しました。

<ダルビッシュ有投手 これまでの成績>
▼プロ野球
2005年 5勝5敗
2006年 12勝5敗
2007年 15勝5敗
2008年 16勝4敗
2009年 15勝5敗
2010年 12勝8敗
2011年 18勝6敗

▼大リーグ
2012年 16勝9敗
2013年 13勝9敗
2014年 10勝7敗
2015年 シーズン全休
2016年 7勝5敗
2017年 10勝12敗
2018年 1勝3敗
2019年 6勝8敗
2020年 8勝3敗
※短縮シーズン
2021年 8勝11敗
2022年 16勝8敗
2023年 8勝10敗