水俣病の救済策めぐる集団訴訟 27日判決 大阪地裁

水俣病と認定されておらず、救済策の対象にもならなかった関西などに住む熊本と鹿児島出身の120人余りが、国と熊本県、それに原因企業に賠償を求めた裁判の判決が27日、大阪地方裁判所で言い渡されます。
裁判では、住んでいた「地域」や「年代」で救済対象を区切った特別措置法の基準の妥当性などが争われ、全国4か所で起こされている集団訴訟で初めての判決です。

訴えを起こしているのは、昭和30年代から40年代にかけて水俣病が発生した熊本県や鹿児島県に住み、その後、大阪や兵庫などに移り住んだ50代から80代の128人です。
水俣病特有の手足のしびれなどの症状があるにもかかわらず、平成21年に施行された水俣病に認定されていない人を救済する特別措置法で、住んでいた「地域」や、「年代」によって救済の対象外とされたため、不当だとして、国と熊本県、それに原因企業のチッソに1人あたり450万円の賠償を求めています。
この裁判の判決が27日、大阪地方裁判所で言い渡されます。
救済の対象は、▽熊本県と鹿児島県が定めた水俣湾周辺の「対象地域」に1年以上住んだ人で、▽チッソが有機水銀の排水を止めた翌年の昭和44年11月末までに生まれた人としています。
裁判では、こうした救済策の基準の妥当性などが争われていて、国などは「原告が水俣病を発症する程度の水銀を摂取したとはいえない」などとしていずれも訴えを退けるよう求めています。
同様の集団訴訟は、熊本と新潟、それに東京でも起こされていて、初めての判決です。
大阪に住む原告の前田芳枝さん(74)は「長い間、苦しみを背負いながら、病気を隠してきた人生です。年々、病気の影響で体がしんどくなってきています。早く水俣病と認めて、一人残らず救済してほしい」と訴えています。

【原告の前田芳枝さん“一人残らず救済を”】
大阪・島本町に住む原告の前田芳枝さん(74)は、小さいときから水俣病特有の手足のしびれや震えなどの感覚障害に悩まされていました。
前田さんは、鹿児島県阿久根市で生まれ、熊本県水俣市などで取れた魚を食べて過ごしていたといいます。
小学生のころから手のしびれや震えを感じ、文字をうまく書くことができないうえに、足の感覚も鈍くなり、段差のない場所でつまづいたり、転んだりしていたということです。
中学校を卒業して大阪の会社に就職した後、しびれなどの症状は何かの病気なのではないのかと疑い、病院で検査を受けました。
前田さんは「複数の病院を受診しても病名がつけられないと言われました。水俣病というのは、思い浮かぶこともなかったです」と話しています。
このときついた診断は、自律神経失調症でした。
その後も症状はなくならず、自分だけが悩んでいることに孤独感や劣等感を抱いていたといいます。
そのため、症状を隠すために人前では常に体に力を込めて震えを止めたり、字を書くことを避けたりしていました。
さらに、30代の時には、毎日ほぼ寝たきりの生活で食事も作ることができなくなり、夫と子どもに苦労をかけたと感じています。
前田さんは、「娘の髪にリボンを結んであげるなど、人並みのことをしてあげたかったです。取り返しのつかない心残りや悔しさがあります」と話しています。
その後、前田さんは兄から水俣病の検診を受けるよう勧められ、9年前になってようやく水俣病と診断されました。
しかし、指定を受けた病院の診断ではなかったため、国の基準では水俣病とは認定されず、国の救済策である特別措置法の申請の受け付けも終わっていました。
また、申請をしていたとしても特別措置法の対象ではない地域に住んでいたため、補償を受けることはできなかったとみられます。
長年、病名もわからず救済もされないまま、どれだけつらい人生を歩んできたのか。
裁判では、同じような境遇の患者とともに、改めて国からの謝罪や補償を求めています。
前田さんは「見た目は元気そうに見えても、長い間、たくさんの苦しみを背負って生きてきました。震えなどの症状を隠し通してきた人生です。国などには私たちの苦しみを理解してもらい一人残らず救済してほしい」と話しています。

【訴訟の経緯】
熊本県の水俣湾周辺で水俣病が公式に確認されたのは、67年前の1956年です。
国の基準で水俣病と認定された人に対して慰謝料や療養費が支払われ、環境省によりますと、8月末の時点で、これまでに▼熊本県で1791人、▼鹿児島県で493人、▼新潟県で716人の合わせて3000人が補償を受けました。
現在も3つの県でおよそ1500人が患者としての認定を求めています。
しかし、水俣病と認められなかった人たちが裁判を起こします。
裁判が長期化する中、1995年、政府は、裁判を取り下げることを条件に国と県、それに原因企業が一時金などを支払うことで解決を図ります。
それでも原告の一部は裁判を続け、2004年、最高裁判所は国などの責任を認め、国の基準よりも広い範囲の健康被害を賠償の対象としました。
これをきっかけに2009年に施行された特別措置法に基づいて、一時金などを支給する補償が進められました。
特別措置法では、国の基準では水俣病とは認められないものの、水銀の影響を受けた可能性があるとして2010年からおよそ2年にわたって申請が受け付けられました。
こうした政治的な解決や特別措置法によって、5万人を超える人たちが補償を受けてきました。
しかし、特別措置法では、住んでいた「地域」や「年代」で対象が区切られたため補償が受けられない人や申請の締め切りに間に合わない人が出ました。
こうした人たちが大阪、熊本、新潟、それに東京で集団訴訟を起こし、1700人余りが国などに損害賠償などを求めています。