水俣病未認定患者救済対象外 関西移住者の裁判結審 大阪地裁

水俣病の未認定患者の救済策で対象にならなかった関西地方などに住む男女130人が、国と熊本県、それに原因企業のチッソに慰謝料などを求めている裁判で、原告の女性は「原告はみな高齢となっており、全員を救済してくれる判決を心から願う」と述べました。
一方、国などは、訴えを退けるよう求め、すべての審理が終わりました。

昭和30年代から40年代にかけて、水俣病が発生した熊本県や鹿児島県から、大阪や兵庫などに移り住んだ50代から80代の男女130人は、水俣病の特有の症状があるにもかかわらず、国の未認定患者の救済策の対象にならなかったのは不当だとして、国と熊本県、それに原因企業のチッソに、1人あたり400万円の慰謝料を求める訴えを起こしています。
大阪地方裁判所で開かれた21日の裁判で、原告の名古屋市に住む森下照美さん(60)が「手足のしびれなどたくさんの症状に今も苦しんでいます。私たちは、結婚や就職で地元を離れ、日本各地に移り住みましたが、過去に同じ生活をしてきた親やきょうだいが救済を認められながら、なぜ自分は認められないのか。原告はみな高齢となり、亡くなった仲間もいます。全員を救済してくれる判決を心から願います」と述べました。
一方、国などは、「水銀に汚染された魚介類を食べた量などについては、原告らの証言しか裏付けがない。水俣病だと認めるには、客観的な証拠が乏しい」などと主張し、いずれも訴えを退けるよう求めています。
21日ですべての審理は終わり、判決は来年(令和5年)9月27日に言い渡される予定です。
同様の訴えは、全国で1700人を超える人が熊本や東京のほか、別の原因企業に対して新潟でも起こしていて、大阪が最初の結審となりました。

【原告“後に続く判決を”】。
裁判のあと、大阪・中央区北浜の会議室で原告や弁護士など40人余りが集まり、平成26年に訴えを起こしてから21日の結審に至るまでの8年間を振り返り、それぞれ意見を述べました。
このうち、弁護団の徳井義幸弁護団長は、「審理が始まって8年3か月、やっと結審の日を迎えることができた。国などが人の命を軽視したことをしっかりと見つめなければと裁判を続けてきた。裁判所には、原告の気持ちや、被害の実態、われわれの主張を十分に伝えられたと思っている。みんなで喜びを分かち合えるような、救済に向けた判決を勝ち取れればうれしい」と話していました。
また、熊本で起こされている裁判の弁護団の園田昭人 弁護団長は「全国で裁判が続く中で、今回の判決が、その方向性を決めるので、救済を求める人たち全員の解決をはかっていけるような判決を期待したい。熊本も関西に学び、今後の裁判を闘っていきたい」と話しました。
原告の1人で、鹿児島県から大阪・島本町に移り住んだ前田芳枝さん(74)は、「8年という長い月日、どれほど苦しんできたか、ひとりひとりの苦しみを長い年月で伝えてきました。きょうの結審まで、さまざまな人が支えてくれて、迎えることができた。全国で1番初めの判決なので、ここでなんとか、後に続く人たちのために、いい判決が出てくれることを願っています」と話していました。
原告のひとりで、21日の裁判で意見陳述した名古屋市の森下照美さん(60)は「落ち込むこともありましたが、きょうを迎えるまで怒りを込めて法廷で証言をしてきました。判決の来年の9月まで、みんなでまた頑張っていきましょう」と話していました。

【原告“つらさ理解して”】
鹿児島県から大阪・島本町に移り住んだ、原告の前田芳枝さん(74)は、小さい時から手足のしびれなどを感じていて、8年前(平成26年)に水俣病と診断されたといいます。
前田さんは、鹿児島県阿久根市で生まれ、熊本県水俣市などで取れた魚を毎日食べて過ごしていました。
小学生のころから手のしびれや震えを感じ、文字をうまく書くことができないうえに、足の感覚も鈍くなり、段差のない場所でつまづいたり、転んだりしていたということです。
前田さんは、「運動会がいちばん嫌いで、走ることがとにかく遅かったです。運動神経がゼロかと思えるぐらいできなかった」と話しています。
中学校を卒業したあとは、大阪の金属加工会社に就職し、同僚らと話をしたことをきっかけに、しびれなどの症状が何かの病気なのではないかと疑い、病院で検査を受けました。
複数の病院で脳波や心電図などを検査し、当時は、自立神経失調症と診断されたといいます。
症状は年々重くなり、30代の時には、毎日ほぼ寝たきりの生活で食事も作ることができなくなり、夫とこどもに苦労をかけたと感じています。
前田さんは、「子どもにリボンを結んであげるなど人並みのことをしてあげたかったです。夫にもこどもにも不自由なつらい思いをさせて本当に申し訳なかったなと思います」と話していました。
その後、前田さんは、兄から水俣病の検診を受けるよう勧められ、8年前になってようやく水俣病と診断されました。
しかし、指定を受けた病院の診断ではないため自治体から水俣病とは認定されていないうえ、すでに、国の救済策である、特別措置法の申請の受け付けも終わっていました。
前田さんは、病名も分からず救済もされないまま、どれだけのつらい人生を歩んできたのかを国や企業などには、理解してほしいという思いから訴えを起こしたといいます。
21日の裁判を前に、今月(12月)3日、前田さんは、同様の集団訴訟を起こしている患者らの集会に参加し、「いまだに救済されていない被害者がたくさんいます。全国に先駆けて結審の日を迎え、最初に判決が言い渡される近畿の責任は重大です。絶対に勝つという思いをもって闘い抜きます」などと決意を述べていました。

【水俣病の現状は】
熊本県の水俣湾周辺で水俣病が公式に確認されたのは、66年前の昭和31年(1956年)です。
環境省によりますと、これまでに水俣病と認定された患者は、ことし10月末の時点で▼熊本県が1791人、▼鹿児島県が493人、▼新潟県が716人の合わせて3000人で、慰謝料や療養費が支払われていますが、現在も3つの県でおよそ1600人が患者としての認定を求めています。
また、国の基準で水俣病と認められずに政治解決などの救済策の対象になった人はおよそ5万人にのぼります。
13年前(2009年)に未認定患者の救済策として一時金や療養手当などを支給する特別措置法が成立し、平成22年からおよそ2年にわたって申請を受け付けました。
一方で、特別措置法の対象となる「地域」や「年代」の線引きで漏れたり、申請の締め切りに間に合わなかったりした人たちが各地で裁判を起こし、およそ1700人が国などに損害賠償などを求めています。