奈良時代の女官 年間320日超の勤務か 「木簡」に記載

奈良市の平城宮跡から、奈良時代の女性の役人、女官の勤務評価を記した木の札、「木簡」が初めて見つかりました。この女性は年間329日も出勤していたとみられ、研究者は「奈良時代の女官の実態を知るうえで貴重な資料だ」としています。

木簡は、奈良時代の都の跡、平城宮跡のうち、天皇の住まいがあった「内裏」と呼ばれる区画に近い水路の跡で、去年、見つかりました。
長さはおよそ17センチ、幅およそ3センチで、女性を意味する「牟須売」や、年齢を示す「年五十九」、それに、年間の出勤日数とみられる「日参佰弐拾玖」という文字などが墨で書かれていました。
調査にあたった奈良文化財研究所は、この木簡はおよそ1300年前の奈良時代前半のもので、記載内容から、宮廷につかえた女官の勤務を評価したものではないかとみています。
女官の勤務評価を記した木簡が見つかったのは、初めてだということです。
研究所によりますと、都で働く役人は原則、ひと月に5日の休日を取ることが定められ、男性の役人は年間300日未満の勤務が大半だったということで、この女性は当時の規定を大幅に上回る出勤日数だったことがうかがえます。
奈良文化財研究所の桑田訓也 主任研究員は、「当時としてもかなりハードワークだったと思う。ベテランで周りからも頼りにされ、出勤日数が増えてしまったのかもしれない。法律上の記述でしかわかっていなかった奈良時代の女官の実態を知るきっかけになるのではないか」と話しています。

【奈良時代も激務か】。
今回の木簡が見つかった平城宮跡では、これまでも当時、都で働いていた役人の勤務評価を記した木簡が、削りくずになったものを含めて1万点以上見つかっています。
これまでのものでは役人の名前が中央付近に書いてありますが、今回の木簡は、名前の部分がちぎれていてよくわかりません。
ただ、「牟須売」という文字が記されていることから、宮廷につかえた女性の役人、女官のことを記したとみられます。
「年五十九」は年齢、「左」の文字は都の北から見て左側、つまり東側に住んでいたことを示しているということです。
調査にあたった奈良文化財研究所は、木簡に記された文字のうち、「日参佰弐拾玖」という部分に注目しました。
これは勤務日数を示すと考えられ、この女性は1年間に329日出勤していたことになります。
当時の法律にあたる「律令」で、都に勤める役人は、常勤の場合、男女ともに原則、ひと月に5日の休日を取得することが定められています。
これまでの研究で、同じ時代の男性の役人は大半が、年間の勤務日数が300日未満で、人事評価の対象になる最低限の日数とされる240日しか働いていない役人も多かったということです。
今回、見つかった女官の勤務評価では、規定を大幅に超え、当時の暦で換算しても年間で3週間程度の休日しか取得していなかったことになります。

【当時の勤務評価は】。
奈良時代、役人の勤務評価は1年ごとに行われることになっていました。
評価の対象になるには、一定の日数以上、勤務する必要があり、休みが多いと評価の対象になりませんでした。
一方で、勤務日数の条件を満たせば、よい評価がされるわけでもありませんでした。
奈良時代、役人の評価については、「善」(ぜん)と「最」(さい)という2つの基準が、当時の法律、律令で定められていました。
「善」は役人としての心構えで、▼品行方正か、▼清廉潔白か、▼公平か、▼勤勉かの4項目について評価がされます。
「最」は、それぞれの役職ごとに異なり、例えば天皇の警護や都の警備にあたった「衛府」という部署でいうと、「統率がきちんととれていて、警備に失態がないこと」が評価される基準となっていました。
この「善」と「最」をいくつクリアしたかによって、常勤職員の場合は9段階、非常勤職員の場合は3段階で評価されるのが当時の仕組みです。
今回の女官の木簡には、こうした評価の部分が欠けていました。
1300年前の「長時間勤務」の評価は定かではありません。

【女性の人物像は】。
木簡に記された女官はどんな人だったのでしょうか。
古代の女官について研究する専修大学文学部非常勤講師の伊集院葉子さんは、「これまで具体的な資料がなく謎だらけの存在だった奈良時代の女官の勤務実態が明らかになり、とても画期的な発見だ」としたうえで、「この勤務日数から天皇の近くにいた人と考えられる。59歳というとこの時代では働き盛りで若いころに仕事を始めて経験を積み、周囲からも尊敬される存在だったのではないか」と話しています。
さらに、「研究が進めば国家が女官に何を求めていたかを考えることにもつながるのではないか」としています。