ストーリーサッカー

引退 内田篤人 32歳の「幸せ」な引き際

2020-09-23 午後 06:45

先月、日本サッカー界稀代のサイドバックが自ら引退を決断した。

内田篤人、32歳。

サンデースポーツ2020はTVメディアとして初めて引退後の内田に単独インタビュー。その濃密なサッカー人生、引退を決めた理由、そして次の世代へのメッセージ。スパイクを脱いだ「ウッチー」がじっくりと語ってくれた。

辛さも嬉しさも、すべて財産

内田の現役ラストマッチ 右膝には何重にもテーピングが

 

2020年8月23日、J1第12節・鹿島アントラーズ対ガンバ大阪。内田篤人の現役ラストマッチとなった試合は、ガンバ1点リードのまま終盤にさしかかっていた。ベンチスタートだった内田だが、味方選手のアクシデントもあり前半16分に早くも投入され、プレータイムは70分を超えている。分厚くテーピングの巻かれた右足でボールを蹴る度、その顔は歪んでいた。それでも内田は最後まで勝利をあきらめず、味方を鼓舞し続ける。後半アディショナルタイム、内田の現役最後のプレー。これまで数えきれないほど蹴ってきた、右サイドからのクロスボール。ゴール前に送られたボールを、鹿島の選手たちは必死につなぐ。最後はDFの犬飼が押し込んで同点に追いつき、試合はドロー。汗だくの内田は、安堵の表情を浮かべて試合終了のホイッスルを聞いた。

 

おそらく「予想以上に」疲労困憊の状態で臨むことになった試合後のセレモニー。まだ32歳、現代のサッカー選手として考えればまだ引退には早すぎる。それでも内田は晴れやかに、真っ直ぐ真摯な言葉を紡ぎ、サポーターに別れを告げた。

 

「きょう僕はここでサッカー選手を引退します。鹿島アントラーズというチームは、数多くのタイトルをとってきた裏で多くの先輩たちが、選手生命を削りながら日々努力してきた姿を見てきました。

日の丸を背負ってプレーする重さも、活気のあるドイツのスタジアム、辛さも嬉しさも、すべて僕の財産です。」

 

鹿島で磨かれた才能

「やめたらもう少しサッカーに戻りたい、グラウンドに戻りたいと思うのかなと思っていたんですけど、全然そんなことないですね。好きな時間に好きなもの食べられるし、子供とずっと遊んでいられるし、今はこの状態、この生活がすごく楽しいです。」

 

引退後のテレビ初出演となった今回のインタビュー

 

引退からおよそ3週間後。シックなスーツでインタビュー会場にやってきた内田。いきなりサッカーへの未練がないとクールに語っていたが、実はこの2日後に、日本サッカー協会が育成年代のために新設した「ロールモデルコーチ」に内田が就任するというニュースが発表され、スタッフは面食らったのだった。颯爽とピッチを駆けていた「ウッチー」らしさ満載で始まったインタビュー。まずはそのプロサッカー人生の始まりから話を聞いていく。

 

2006年3月、17歳でJリーグデビュー

 

2006年のリーグ開幕戦、高卒ルーキーの内田は名門・鹿島の右サイドバックとして先発出場。果敢に1対1を仕掛けるドリブルに、正確なクロスボール。攻撃的なプレーを武器にスタメンに定着し、チームの3連覇に貢献した。内田にとってはプロとしての土台を作ったこの時期、鹿島という環境で過ごしたことに自身大きな影響を受けたと振り返る。

 

「鹿島アントラーズは選手のレベル、環境ではやはり日本のトップだと思っています。それだけでなく、フロント、強化部、マネジメント、広報スタッフ…。細かく言ったら、掃除のおばちゃんも芝生を管理してくれるおじちゃんも、勝つために自分は何をするのかをまず考えている。鹿島はそんなチームだと思います。各々が自分の職場のプロフェッショナル。そんな集団ですね。」

 

鹿島の仲間と共にリーグ優勝のシャーレを掲げる内田

南アでの挫折 戦いは欧州へ

鹿島で才能を開花させた内田は、19歳で岡田武史監督(当時)率いる日本代表に抜てき。北京オリンピックにも出場し、大きな期待を集め2010年のワールドカップ南アフリカ大会に臨んだ。しかし。

大会直前、チームはより守備を重視する戦術に変更。内田は出場機会を失った。初めてのワールドカップは、ピッチに立つことなく終わった。

 

W杯南ア大会でベスト16入りした日本代表 内田はベンチから見つめた

 

「えーと…、今でも悔しいですね。」

 

一息ついたあと、10年前の挫折で何を得たのか。ゆっくりと思い返すように、言葉を紡いでいく。

 

「今思えば、世界で戦える選手ではなかったということは、わかるんです。でもあの時は21歳で試合に出たいしか思っていないですからね、全然納得していなかったですけど。その理由を求めるために、ドイツに行かなきゃいけないと思っていたんですよね。」

 

実はスタッフは、当時の代表監督・岡田武史から内田へメッセージをもらっていた。サプライズとして、内田に渡してその場で読んでもらう。

 

W杯 ベンチでの内田と岡田監督

「W杯ではコンディションもあり使わなかったが、内心は悔しかったと思う。でも一切顔や態度に出さずチームのためにプレーしてくれた。その後ドイツに渡ったのを知り、頑張れよと心の中で応援していた。その後のケガで今回の突然の引退には驚いたが、この悔しさをばねに必ずもう一度サッカー界で輝いてくれると信じています。」

 

岡田からのメッセージには自然と笑みが

 

「(岡田さん)、優しくなったな。ははは。」

 

メッセージが書かれた紙を手に、笑顔でそうこぼした内田。続けて岡田との知られざる秘話を明かしてくれた。

 

「実は、引退するちょっと前に(岡田さんが代表を務める)FC今治の方にお誘いを頂いたんです。“まだやれるだろ?”って。“来い!”みたいな感じで。そこは“やめます”と伝えさせていただいたんですけどね。でも岡田さんは、やっぱり日本で一番ですよ。監督としてだけじゃなくて、日本サッカーに携わってきた方々の中で本当に岡田さんは一番だと思います。そういう監督に若いうちに会えて指導してもらったことは、自分にとって本当にすごく大きなことだったと思います。」

ドイツで見出した活路

南アフリカでの挫折の直後、2010年の7月。内田はドイツ1部の強豪・シャルケに移籍した。これまで体験してきたサッカーとは全く違う、世界トップレベルの環境に、21歳の内田は衝撃を受けた。

 

サイドで激しい攻防を見せる内田とリベリー(右)。マークする相手は各国代表のエース級の選手たち。

 

「自分の中では“競技が違う”と思って割り切ってプレーするようにしましたね。日本のサッカーって、ボールを持ちます、ポゼッションします、攻めます、みたいな感じなんです。でも最初僕が思ったドイツの印象は、ボールを持って“ヨーイドン!”みたいな感じ。目の前にいる相手に負けない、ガシャーン!ってぶつかる、ボールを拾ってゴールに走るみたいな感じなんですよ。もう本当に格闘技じゃないですけど、そんな印象はありました。」

 

シャルケで共にプレーしたのは、ドイツ代表のゴールマウスを守るノイアー、オランダ代表フォワードのフンテラール、そして長年スペイン代表のエースを務めたラウールなど各国の代表選手たち。厳しい競争の中で内田は自分の居場所を懸命に探していく。活路を見出したのは、かつて自分が売りとしていた攻撃ではなく、守備だった。

 

 

「僕は派手なプレーはできません。だからチームを支えるために、一番危ないところにいなきゃいけない時に必ずいるとか、ちょっとチームがきついときはボールを横に動かすとか、要所要所で考えてプレーできたことというのは、大柄なドイツ人や海外の選手の中で自分がひとつ違った持ち味を出してプレーができたんじゃないかと思います。」

 

どんな時もチームのために、献身的にピッチ上で常にベストを尽くす。体格に恵まれなくても闘争心あふれるプレーをする。

内田の姿は「シャルカー」と呼ばれる熱狂的なファンの心をつかんだ。いつしか内田がピッチを駆けるたびに、スタジアムには内田の愛称の「ウッシー!ウッシー!」の大合唱が響くようになっていた。

 

「スタジアムでオーバーラップするたびに、“ウッシー、ウッシー!”って聞こえるんです。みんな低い声ですけど(笑)。そりゃ走れますよね。今改めて、"サッカーって何だろう?”と考えた時、自分の中ではその答えはもう一発回答。シャルケのスタジアムに行って見てくれと。サッカー選手として生きていくために、戦って走ってぶつかりあう選手たちがいる。それを見て応援してくれる7万人のサポーターたちの熱気がある。もうあそこに全部が詰まっていますよ。」

 

青に染まるシャルケのスタジアム。地を揺らすほどの歓声がいつも響いていた。

 

「国も人種も宗教も違うんですけど、シャルケというチームで、1つのゴールを取るためにスタジアムのみんながパワーを感じている。あの光景を見るために海外に渡ったんだと思えたら、自分はすごく幸せなワンシーンの中でサッカーをしていたんだなと思いますね。」

内田篤人の“ピーク”はいつだったのか

ヨーロッパチャンピオンズリーグではインテルの長友佑都ともマッチアップ

 

シャルケで主力選手となり、ヨーロッパ最高峰の舞台であるチャンピオンズリーグでもプレー。チームのベスト4進出にも貢献した。

そして2014年のワールドカップブラジル大会。4年前には届かなかったピッチに立ち全試合フル出場を果たす。チームが1次リーグ敗退の苦しい戦いに終始する中で、内田はドイツで磨いてきた守備で奮闘した。

 

この時、内田篤人26歳。ここからまさに、サッカー選手としてピークを迎えていく年齢のように思えた。しかしこの年の2月に痛めた右ひざは限界に近づいていた。

満身創痍でワールドカップは乗り切ったものの、その後たび重なる右ひざのけがに苦しめられていく事になる。

 

 

「僕自身は、“自分にピークは来なかった”と思っているんです。25歳でケガをして手術をして、選手として一番いい時期であるはずの26、27、28、29、30歳を迎えずにサッカーをやめたので、僕自身としてはピークが結局来ないまま終わったなと。」

 

長いリハビリを経て復帰したものの、なかなかトップフォームには戻らず2017年にシャルケを退団。翌2018年に8年ぶりに鹿島に復帰する。しかしその後も、かつてのように全力でプレーできる状態に戻ることはなかったのだという。

 

Jリーグに復帰した後も、内田の右膝にはいつもテーピングが巻かれていた

 

「日本に帰ってきて自分の立場というか、期待されていることは頭ではわかっているんですが、それをプレーで表現できなくなってきた。自分でも抑えながらプレーをしていることがすごくつらくて。正直言うと、もう仲間に失礼だなと思いました。自分の身体が思うように動かなくてつまらないという気持ちもあったんですけど、それよりも隣で一生懸命やっている仲間の姿を見ると、その横で力をセーブしながらプレーしている自分が“邪魔だな”と。」

 

2020年、32歳の夏。内田は自分の“引き際”を決めた。

今の僕にできること 

 

「僕みたいに32歳でやめる人もいれば、例えば僕の憧れのカズさんのようにサッカーを追求して、サッカーやスポーツの域を超えて人に何かを与えられるような人もいます。引き際とかやめるタイミングというのは本当に人それぞれなんでね。32歳って社会に出たら全然若いですから。今の僕にできる価値があることは、この経験を次の選手たちに伝えて教えて、もっといい選手を育てなきゃいけないんじゃないのかなと考えるようになったんですよね。」

 

9月13日に発表された、内田の日本サッカー協会の「ロールモデルコーチ」就任。さっそく翌日には19歳以下の日本代表合宿に参加し、未来の日本代表に経験を伝えるという仕事を始めている。

 

 

「今の高卒で入ってくる選手なんかは、Jリーガーになりたいんじゃないんですよね。目標は海外にあるんで、Jリーグで結果があまり出なくても、ポンって海外に移籍できちゃう環境が整っている。でもやっぱりそんなに甘くないんですよ。ヨーロッパのどの国に行って、どのチームに行って、高いレベルである程度の活躍をしないと本当に意味ないなと僕は思っちゃうんです。引退したので言えますけど、チャンピオンズリーグに毎年出るようなクラブで、スタメンでプレーする、そして長く活躍し続けることがすごく大事だと思います。」

 

20代前半でヨーロッパに渡り、世界最高峰の舞台でしのぎを削ったサイドバック、内田篤人。早すぎる引退と悔やむ人は今も多い。それでも、引退からわずか3週間でコーチとして颯爽と再出発を切った彼の眼差しは、決して後ろ向きではなかった。

 

インタビューを終えスタッフがカメラを止めようとしたとき、彼は最後に自身の“引き際”について、微笑みながらつぶやいた。その言葉が、彼のサッカー人生が最後まで幸せなものであった証明であるように思う。

 

 

「“引き際”ね…。でも自分から辞められるからいいじゃないですか。“はい、もうクビ!”って言われるよりはね。こうやって現役を終われるというのは、サッカー選手として本当に幸せだったと思います。」

 

 

サタデースポーツ・サンデースポーツ

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