ストーリーサッカー

地域密着とJリーグの日々 関係者は語る スポーツ平成史・サッカー 第2回

2019-03-12 午後 04:33

まもなく幕を閉じる、「平成」という時代。サンデースポーツ2020では、2月から4週にわたってスポーツの平成史を振り返りました。
2月17日放送回のテーマは「サッカー」。幾多の苦難を乗り越え、挑戦の歩みを止めない日本サッカーの30年間を、平成の時代を「プロサッカー選手」として駆け抜けた“キングカズ”三浦知良選手とともに振り返ります。

第2回は日本サッカーの歴史を代えたJリーグがテーマ。平成5年の開幕時、1府7県の10クラブだったチームは、今や39都道府県、55クラブとなりました。紆余曲折を経ながらも成長を続けてきた背景には、当時チェアマンだった川淵三郎さんの「地域密着」への思いがありました。

26年前の開会宣言

 

平成5年5月15日。東京、国立競技場。

ヴェルディ川崎と横浜マリノスの試合で、「Jリーグ」は幕を開けた。サッカーがまだ閑散とした競技場で行われていた昭和の終わりからわずか5年余り。この夜は競技場全体がカラフルなレーザー光線でライトアップされ、夜7時半キックオフの試合には6万人とも言われる観衆がつめかけた。そしてそのピッチには、ヴェルディの緑色のユニフォームに身を包んだカズがいた。

 

Jリーグ開幕戦でのカズ

 

しかし残念ながらカズには、この稿での主人公をこの競技場にいた別の男に譲ってもらおうかと思う。それは当時のJリーグのチェアマン、川淵三郎。彼が開幕セレモニーで読み上げた「開会宣言」は、今につながる「Jリーグの原点」となっている。

 

開会宣言。スポーツを愛する多くのファンの皆様に支えられまして、Jリーグは、今日ここに大きな夢の実現に向かってその第一歩を踏み出します。1993年5月15日。Jリーグの開会を宣言します。Jリーグチェアマン。川淵三郎。」

 

 

川淵が自筆で書いた原稿。この中には、日本初のプロサッカーリーグの開会宣言に「使われるであろう」言葉が入っていなかった。それは、「サッカー」という言葉だった。

「サッカー」は絶対使いたくなかった

「もうね、サッカーという言葉は絶対使いたくなかったんだ。」

 

東京・文京区のJFAハウス。昨年末に82歳になった川淵は、なぜ「サッカー」という言葉を使わなかったのかという取材班の問いに、力強く答えた。

 

川淵三郎・元Jリーグチェアマン

 

「僕はサッカーのためだけにJリーグをやるんじゃない。いろんなスポーツを愛する人のためにJリーグのクラブを作る。それによって、地域の人たちがいつもそこに行ってスポーツをエンジョイする、そういう世の中を作りたいんですと。そう伝えたかったんです。」

「地域に根ざした」プロチームを作る。それが川淵の強いこだわりだった。その背景には、20代のころ訪れたドイツでの体験があった。
川淵が今も大切にしている古いアルバムがある。今から59年前、サッカー選手として日本代表にも選ばれていた川淵が、遠征先のドイツ・デュッセルドルフ近郊のスポーツ施設を訪れた時のものだ。そこでは、地域の人たちがプロチームのグラウンドで日常的にスポーツを楽しみ、試合を町ぐるみで応援する姿があった。

 

 

「地域で育ったサッカーのチームがあり、それをみんなで応援しようと、その町とクラブが盛り上がる。そして全国各地に行って試合をするんですよ。それには、地域の人たちのバックアップがあって初めてリーグが成功している。そういうリーグを日本はゼロから始めるんだと思ったんです。」

地域のチームが生んだ熱狂

その「地域密着」へのこだわりが象徴的に表れたのが、参加するチームの名前だった。それまでの日本のスポーツは、企業傘下の実業団チームが主体となって行うのが当たり前だった。それはサッカーでも例外でなく、「日産自動車」や「古河電工」、「マツダ」など広告塔の役割を担うためにチーム名に企業名が入ることが常識だった。その常識を川淵は変えた。

 

「世間的には企業名が表に出て初めて、会社がスポーツをやってる値打ちがあったわけです。Jリーグのチーム名に企業名を入れないのは、大半の会社はほとんど反対だったんですが、しかしそうじゃないんだと。その地域の人たちがチームを応援しないかぎり、そのクラブの発展はないですよと。地域に根ざすということが、これからは一番大事な事ですよと伝えましたね。」

 

Jリーグ開幕時に10チームが参加した

 

そうしてJリーグ初年度に参入したチームは、大半が企業傘下の実業団を母体にしていたものの、新たに「地域名+愛称」という形にその名前を変えた。

鹿島アントラーズ
ジェフユナイテッド市原
浦和レッドダイヤモンズ
ヴェルディ川崎
横浜マリノス
横浜フリューゲルス
清水エスパルス
名古屋グランパスエイト
ガンバ大阪
サンフレッチェ広島

 

8つの府県にまたがる10のクラブで始まったJリーグ。選手たちのプレーは地域の人たちを熱中させた。当時のNHKが取材した映像には、Jクラブの誕生を受けて熱い思いを語る、鹿島アントラーズサポーターの若者たちの声が残されている。

 

「自分たちにも統一した応援できるチームがある。自分の街を好きになったと思いますね。」
「みんなでね、わーっと騒ぎながら応援した時の気持ちが、いつまでも残ってるんですよ。またああいう応援ができるって思うと、毎日がまた盛り上がってくるんです。」

 

まるで川淵の理想が早くも体現したような、華々しい船出。Jリーグの未来は前途洋々かに見えた。しかしその後のJリーグの平成の歩みは、荒波の連続。中でも最大の試練は、開幕から5年後の平成10年。わずかに残っていたバブルの余韻も完全に消え去った、厳しい不況の時代に訪れた。

大企業頼みの経営の限界

平成10年10月末、そのニュースは突然だった。

 

フリューゲルス吸収合併のニュースを伝える、当時のNHKニュース7

 

「横浜フリューゲルスが長引く景気の低迷などを理由に、同じ横浜に本拠を置くマリノスに吸収合併されることになりました。」

 

クラブの経営不振による、フリューゲルスの事実上の消滅。混乱はそれだけにとどまらず、他にも経営危機に陥るクラブが続出した。地域密着を掲げながら、クラブの多くはかつての実業団時代のような企業頼みの経営から脱却することができていなかったのだ。それはスター選手をそろえ絶大な人気を誇ったヴェルディも例外ではなかった。Jリーグの開幕当時からヴェルディで営業や広報などを務めてきた竹中百合は、親会社に頼った経営の甘さがあったと振り返る。

 

竹中百合さん 開幕当時からヴェルディに関わってきた

 

「大企業がチームについている間は、どこか他人任せというか。お金がなくなったら、まあ言い方は悪いですけども親会社が補てんしてくれると考えていました。川淵さんの理想とするものとは真逆の動きをしていたんです。」


平成10年に経営を担っていた読売新聞などが事業から撤退すると、ヴェルディは高額な年俸のスター選手の放出を余儀なくされる。当時チーム一のスターだった31歳のカズまでもがチームを追われた。

 

カズはチームを去り、ヨーロッパに新天地を求めた

 

スター選手頼みの集客だった結果、入場者数も減っていき収入も落ち込む。経営危機の後もチームに残り、平成14年の引退までヴェルディでプレーした北澤豪は、グラウンドに立ちながら感じていた、当時のもどかしい思いを明かす。

 

元サッカー日本代表 北澤豪さん

 

「スタジアムにバスが到着してから、僕は必ずスタンドの観客席を見てから控室にいくようにしていたんです。当時『ん?ちょっとずつ観客が減ってきてるな』って感じはありましたよ。もっと地域にちゃんと焦点を合わせてクラブ経営をやっていくことができれば、ヴェルディもそうはならなかった。今もそう思います。」

平成の終わり 青森からJに挑む

数々のチームの経営危機という苦い教訓を経ながら、Jリーグは拡大を続けている。

平成11年のシーズンからはディビジョン1(J1)とディビジョン2(J2)の2部制に移行。さらにチーム数は増加し、平成26年のシーズンには3部リーグにあたるJ3も新設された。また財務面や施設面、地域に育成チームを保有しているかなどを審査する「クラブライセンス制度」を導入して、各チームのリーグ参加資格をチェック。かつてのような親会社頼みの赤字経営はできない仕組みを整えた。新規のJリーグ参入にあたっては経営面で不安を抱えるクラブも多いため、Jリーグの職員によるサポート活動も行われている。

 

平成最後の冬、Jリーグの専務理事・木村正明はあるクラブの施設を訪ねていた。「ヴァンラーレ八戸」。サッカーがあまり根づいていなかった青森からJ参入を掲げて創設14年目。アマチュアのリーグを勝ち抜き、今シーズンからJ3に挑戦する。

 

木村専務理事はJの理念を伝えるため青森に赴いた

 

この日、木村からヴァンラーレの選手・スタッフたちに伝えられたのは、初代チェアマン・川淵三郎がこだわり続けた「理念」だった。

 

「クラブを愛し、選手を愛してくださる方々が、最終的なファン、サポーターとして残って下さります。応援文化をぜひ、地域の皆様と共に作って頂ければと思います。」

 

Jリーグの理念を忠実に。ヴァンラーレは地域密着を推し進めてきた。支援を受けるスポンサーはおよそ400社。ほぼすべてが県内にある企業だ。

 

ヴァンラーレの地元ファンとのイベントには多くの人が集まる

 

また、選手とファンの交流イベントも年間100回以上開催。地元の子供たちがチームに親しみを持てるよう、選手のイラストシールも4000枚作った。何よりも大事にしてきたのは、地域から愛されるクラブづくり。社長の細越健太郎は、挑戦のシーズンを前に自分たちが目指すクラブの形をこう語った。

 

細越健太郎・ヴァンラーレ八戸社長

 

「ヴァンラーレは、この地域に根を張ってスタートしたクラブです。ホームタウンの皆さんが、本当にこのクラブが好きだと思って一緒に戦ってくれるような、そういうクラブに育てていければいいなと思います。」

 

昭和の終わりには存在すらしなかった「Jリーグ」。平成の時代と共に26年の月日を過ごしてきた。その原点となる、開会宣言。

 

「スポーツを愛する多くのファンの皆様に支えられまして、Jリーグは、今日ここに、大きな夢の実現に向けて、その第一歩を踏み出します―。」

 

川淵の思いは、今も全国各地で浸透している。

カズが思う 地域密着

話を、ここでヴェルディ川崎に戻そう。
経営危機による規模の縮小の後、チームは東京にホームタウンを移転。主に東京西部・多摩地区を拠点に、地域密着の活動に積極的に取り組んでいる。チームは去年もJ1昇格をあと一歩で逃したが、地元で育った若手選手を次々と輩出し、再びJ1に戻るための歩みを続けている。

そして、経営危機に際してヴェルディを去ったカズ。いくつかの移籍を経てたどり着いたチームは横浜FC。消滅したフリューゲルスを応援していた市民たちが中心となり作ったクラブで、彼は今もプレーしている。地域の小学校への訪問授業など「地域密着」の取り組みは、サッカー選手としてのカズのライフワークとなった。

 

 

カズは時に神妙な眼差しで、Jリーグの25年の歩みを振り返るVTRを見つめていた。

――カズさんが理想とするJのクラブの在り方とはどんなものですか。

こう尋ねると、カズは自身の歩みを振り返るように、自らの思いを語り始めた。

 

「地域への貢献というものは、Jリーグが一番最初に掲げたもの、一番重要なことだと思います。それまでは日本ではずっと企業中心でスポーツが行われてきました。Jリーグが出来ても最初は企業頼みの事が多かったと思うし、まあ今でも中にはあると思うんですけど、でもやはり地域の人たちとの触れ合いが増えれば増えるほど、クラブが成り立っていくという形が徐々に広がっていった。それに支えられてサッカーをやっていると、僕らもすごく感じます。そこは続けていかなければいけない。これは『いつまで』とかではないと思うんです。ずっと続けていかなければいけないんです。」

 

 

「そうやって10年以上をかけてJリーグに参入してくる八戸のようなクラブを見ると、みんな夢を持てると思うんです。Jを目指して自分たちもやれるんだという意味で。それが日本のサッカーの素晴らしいところなんだと思います。」

 


(次回に続く)

 

 

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