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特集 広島 秋山翔吾選手 家族の約束と母への思い

野球 2023年5月17日(水) 午前10:00

20年以上前の話です。

 

プロ野球選手になると決めた野球少年がいました。中学生の時です。野球の練習には、車の運転ができないお母さんとたくさんの道具を持って徒歩と電車で通いました。疲れ果てた帰路の途中、ときどき2人で食べた外食は今でも覚えています。早くにお父さんを病気で亡くした野球少年は、プロ野球選手になることを心に誓って成長しました。

 

夢をかなえた野球少年、秋山翔吾は、お母さんに活躍する姿を見せ続けています。

8年前から続ける“ひとり親家庭”への支援

5月5日の「こどもの日」。

広島のマツダスタジアムで行われたプロ野球の試合前。招待された人たちはスタンドの最前列で目を輝かせながら憧れの選手の練習を見つめていました。招待されたのは、12組26人のひとり親家庭の親子です。プロ野球、広島東洋カープの秋山翔吾が自ら企画したイベントに親子が楽しい時間を過ごしました。練習後には、秋山もユニホーム姿で招待した子どもたちと特別に面会し、サインや写真撮影などで交流しました。

 

招待した子どもたちとの記念撮影

秋山選手

ひとり親っていうと恐らく親御さんは働きに出ているでしょうし、家にいる時間であり、お子さんと過ごす時間やイベントっていうのは、なかなかないと思います。自分が何かをするに当たって、同じ境遇の人たちのほうが、気持ちも分かるかなって思ってます。何かを感じて、何か楽しかったなとか、ああよかったなとか、こういう選手いるんだなっていうのが、頭に残ってくれたら、もうそれでいいんじゃないかと思います。

 

12歳で経験した父との別れ

去年、秋山はアメリカから帰国し、カープに入団しました。

今シーズンは開幕から打率4割前後と好調。35歳のベテランは、低迷するチームを先頭で引っ張っています。ひとり親家庭の支援活動は、8年前、西武ライオンズでプレーしている時に始めました。そこには、自らの少年時代の経験がありました。

 

少年時代の秋山選手と父の肇さん

秋山は、神奈川県横須賀市で生まれました。小学2年生の時、父の肇さんがコーチをしていたソフトボールチームに入団しました。息子にプロ野球選手になってほしいと願っていた肇さんは、秋山を厳しく指導しました。ヒットを打っても「満足するな」と、褒めることはありませんでした。しかし、秋山が小学6年生の時、父親の肇さんはがんを患い、亡くなります。40歳。ともにプロ野球選手を目指しながら志なかばでした。

秋山選手

あれだけ強くて厳しい父親が病気で倒れるというのは信じられませんでした。病院からなきがらが戻って来たっていうのが、あまりに衝撃的で、人が目の前からいなくなるのがこんなに大きいものか、と思いました。あのときは、それを自分に理解納得させるまでにすごく時間がかかりました。

 

野球への葛藤

 

父の死から数か月、中学にあがった秋山は自宅から離れた、強豪の硬式野球チームに入ります。全国大会に連続で出場していたチームの練習は厳しいものでした。毎週土曜、日曜は朝早くから猛練習、日が暮れてもグラウンドを走り続けました。しかし、体の線が細く、すぐにレギュラーにはなれませんでした。

秋山選手

その程度の実力の僕が、野球を続けていってプロになれるのかなっていうのがありました。ここから先があるのかなっていうのをちょっと葛藤した時期でした。

 

母の思いとプロへの覚悟

母の順子さんと

そんな中、ひとり親となった母の順子さんは、平日は仕事をしながら、週末は、送り迎えや早朝からグラウンドでチームの当番をして秋山を支え続けました。チームのグラウンドは、最寄り駅から長い坂道を登って、およそ20分。母の順子さんは車の運転が出来なかったため、ともに徒歩と電車で野球の練習に通いました。

 

母の順子さんと通い続けたグラウンドへの道

秋山選手

母は朝から夜遅くまでチームの当番をしてくれました。弟や妹もいる中、簡単じゃなかったと思います。母が1人で言葉にも出さず頑張ってる。でもしんどいっていう雰囲気も、感じていました。母は、父を亡くしたという喪失感は僕以上に明らかでした。それでも父から残されたものというのが子どもたちであり、野球というもの、もうそれを必死に守り続けて生きてきてくれてるなという感じでした。

父親を亡くしてから母親と過ごした時間、野球の行き帰りで母親と2人だけで交わした会話、家族の生活を守る母親の存在は秋山のプロへの覚悟を強くしていきました。

 

秋山選手

母が野球を続けさせるっていう気持ちは、そのまま父からの思いが残っていました。そういうものを見えていたんで、妥協はできなかったです。野球をやらせてもらえる以上は、とにかくプロになることだけを考えて、それでもう僕の人生、それで真っすぐ行くしかないと思ってました。プロ野球選手になるというものに対して、足を踏み出し続けられたなと思います。

 

ひたむきな努力と家族の約束

秋山は、自らに葛藤を抱えながらも、母・順子さんの思いに触れ、父の夢だった「息子をプロ野球選手にする」という目標への思いを強くしていきました。当時の秋山を知る横浜金沢リトルシニアの大居靖夫監督は、その練習に取り組む秋山の姿勢は周囲と全く違ったことを覚えています。

 

横浜金沢リトルシニア 大居靖夫監督

横浜金沢リトルシニア・大居靖夫監督

野球に対する取り組み方が真面目で1人違いました。翔吾の場合は、他の選手にはない、明確な目標がありました。例えば、設定されたタイム以内でグラウンドを1周する体力強化のランニングでは常にトップのタイムでした。途中で手を抜く選手もいるなかで、常に全力で先頭を走り続けていた。黙々と練習していたのが印象的です。

 

その後、高校・大学とコツコツと実力をつけた秋山は大学4年生の時に西武ライオンズからドラフト3位で指名を受けました。とうとう家族で交わした秋山家の約束を果たします。そして念願のプロ野球選手になってからもひたむきに練習を重ねました。2015年には、プロ野球記録となるシーズン最多の216安打を達成。プロ野球の歴史にその名を刻むまでの選手として活躍し続けています。

 

“何歳になっても息子は息子” 

実は、先月、秋山はカープに移籍して初めて、マツダスタジアムの試合に母の順子さんを招待しました。新しいチームの本拠地で初めて母が見守る前でプレーしました。結果は、4打数ノーヒットでした。しかし、そのことを振り返る秋山の表情は柔らかく父親を亡くしてから歩んできた家族の歴史が凝縮されているようでした。

 

秋山選手

親不孝な試合を見せてしまいましたけど(笑)元気でいれば、また見に来てくれる機会もあると思います。35歳になっても40歳になってもやっぱり息子は息子ですから、活躍している姿を見せて、現役を長く続けることが、母の楽しみを奪わずに生活できるものになっていくと思います。

 


【編集後記】
秋山選手は、今シーズン、あと2試合、ひとり親家庭の家族を試合に招待する予定です。親子で過ごす時間の中で何かに頑張れるきっかけを届けたいという秋山選手の思いが少しでも多くの親子に伝わるといいなと思っています。


私は、5月の大型連休中、秋山選手が母親の順子さんと通った硬式野球チームを取材で訪ねました。グラウンドへ続く坂道を歩いていると行楽地へ向かう家族や、野球の練習帰りの家族でにぎわっていました。

 

夕暮れ、時計を確認すると広島まで帰る終電の新幹線の時間が迫っていました。秋山選手への取材を通して普段、何気ない会話で、家族と思いを共有することの大切さに気づかされました。私は、今回の取材はこれで終えて急いで広島への家路につきました。

この記事を書いた人

鈴木 俊太郎 ディレクター

鈴木 俊太郎 ディレクター

平成19年入局。

札幌局・報道局を経て広島局に勤務。スポーツでは夏季・冬季で2回の五輪、ラグビーW杯を取材。

広島では、原爆関連の取材からスポーツまで幅広く取材。

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